(Return to the front page.) gilboa@ma.0038.net
第94回東京道塾報告(2005/10/12)
課題テキスト:宮本武蔵著『五輪書』(岩波文庫) 「地の巻」
今回は宮本武蔵著「五輪書」第一回である。
宮本武蔵は小説・TV・映画などを通じて広く知られた人物だが、テキストの巻末の159ページには武蔵の人生のあらましが記されているので参考にされたい。
彼の著作から直接学び、企業経営の視点からも人生の指南としても、その発言に耳を傾けたい。
武蔵は1584年に岡山で生まれ、60回もの真剣勝負に勝ち、50歳の頃に「二天一流」の剣術を完成させたという。おそらく彼は強すぎたために、晩年まで主君を得ず、なかば不遇であったようだ。辛うじて最後の5年間を肥後熊本の細川家の客分として安住の地を得、亡くなる2年前の1643年に、この「五輪書」を著した。
手島塾長は熊本市内の出身で、小中学校時代も遊び場にしていた熊本城で武蔵の事蹟について触れる機会が多かった。今回の講義で配付した武蔵の自画像と伝わる画と、武蔵の筆になる雁の絵などは、少年時代から幾度もまぢかに実物をみてきたとの由。そのほか、ム歳筆になる軍鶏の彩色画、木彫りの猿の像など、どれも素晴らしい逸品であった。また武蔵がこもって「五輪書」をつづった霊巌洞にも、塾長は幾度も足を運んだとの由。
[ 求道者・武蔵 ]
この肖像画には武蔵の真筆かどうか疑義を持つ人もある。だが、この武蔵像に描かれた目の鋭さは武術を極めた人でないと描けないだろうし、その衣装の筆致の鋭さを見ても武蔵の手になるものだろう。
雁の画についても、その広げた翼の張りの緊張感や、まさに着地しようとする瞬間の足の描写の確かさから見てこれも真筆だろう。雁の首のフォルムも実に生き生きとしてダイナミックだ。これは一般の画家が描けるものでなく、動きを瞬間的に捉える剣術で鍛えた目の訓練の賜物であろう。
1637年の島原の乱のさい、武蔵は原城を攻略に参加した。そこで反乱軍の百姓が城から投げた石をひざに受け思わぬ負傷をした。そのさい、彼を引取り、療養させたのが細川家の家老で八代藩主の松井であった。彼の推挙で武蔵は1640年から細川家の客分になった。彼の人生の集大成として熊本の西に聳える金峰山山系の一つ、岩戸山の霊巌洞で「五輪書」をしたためた。
1645年に武蔵が亡くなったとき、遺言により、彼の遺骸は、熊本の北東、参勤交代街道の要衝・立田口に、甲冑を着けて立ったままの姿で葬られた。この道は阿蘇外輪山を通って大分の中津に通じている。この場所は武蔵塚と呼ばれ、彼は参勤交代に旅立つ細川家の守り神となることを望んだのであった。
武蔵は戦国の後期から徳川時代の変革期に一剣士として生き抜いたが、彼が「五輪書」を残さなかったら、彼の名は歴史に大きく残ることはなかったであろう。
同じ剣士でありながら柳生但馬守宗矩は徳川幕府のお抱え剣術指南として出世した。しかし柳生宗矩の「兵法家伝書」は沢庵禅師の教えの付け焼刃である。これに対して五輪書はまるで隙がない。
彼は、「万事において我に師匠なし。今この書を作るといえども、軍記・軍法の古きことももちいず、此一流の見たて(二天一流の見解)、実(まこと)の心を顕す事」として一言一句自身の言葉で綴っている。
「五輪書」は全文が彼の書き下しで、全編が彼の思想である。彼が一語々々考えながら書いた箇所は、文章がつまっていて、2行か3行で独立した1段になっている。一方、彼が得意な分野での記述は流れるように書かれている。
武蔵は13才から真剣勝負で連戦連勝、佐々木小次郎を巌流島で倒すまで60回もの真剣での勝負に勝ち抜いてきた。それが29才の時だ。彼は身長6尺、その長身も彼の剣術になにがしかのプラスになっていたかもしれない。
30才になって自ら振りかえってみた。そこでふと気がついた。自分がこれまで命を落とさずに来られたのは、剣使いがうまいから勝ったのか、生まれつき武芸の才能に恵まれていたためか、或いは相手がすべて弱かったからか。では、剣とは何か。兵法とは何か。いや剣の道とは何か。そう考えはじめると、ここから彼の内面の苦闘が始まった。
そして50才になってようやく兵法の真髄を悟ったという。その20年間、彼には戦う相手なく、いわば素振りで「朝鍛夕錬して」兵法の極意を探索し続けたのである。
[ 道としての兵法 ]
彼は「万事において師匠なし」と云っている。彼には剣に限らずすべての事に師を持たず専ら自己研鑽を貫いてきた。「万事において師匠なし」とは、ずいぶん傲慢に聞こえるかもしれないが、じっさい彼には模倣すべき師匠はいなかったのであろう。ことばを返して考えると、彼には人間の先生はいなくとも、天地自然すべてが師であるということだったのであろう。
彼が描いた雁(がん)の画を見るとわかることだが、その翼の動きの描写は、雁への鋭い観察があってはじめて描けるものだ。絵画の師範や先生はそこまで教えることはできない。剣の達人として、彼は恐ろしく鋭い視力を有していたのだ。
模範解答は無い。勝負の1回、1回が師であり、学習であり、叡智を湧かす実戦の場であり、その蓄積と記憶、そして徹底した自己研鑽が彼の実力となっていた。
良き師とは解答(Answer)を示してくれる先生ではなく、解決への方向(Direction)を示唆してくれる先生だと言うことになる。学ぶとは、先生とか先人の後を付いてゆくのではなく、刻々、刹那、刹那に変化する万物から学びとることである。習うものは、どのみち手本のレベル以前で停止する。後は自ら学び考え変革して行くことである。
武蔵はその意味で、偉大な変革者(innovator)であると云えるし、現代の企業において経営者として又従業員として学ぶ点がある。
[ 武士らしい武士とは ]
武蔵は「兵法の道わきまえたるという武士なし」と、徳川の代になって武士らしい武士がいなくなくなりつつあることを批判している。
だからこそ孫子の兵法のような用兵の術を超えて、兵法の「道」というもっと高い次元の精神的価値を模索し始めたのかもしれない。
武士に必要なたしなみは文武二つの道があり、武においては勝つことを目指して他人よりも努力することが基本だが、新しい時代になって実戦から遠ざかりその努力がなおざりになりつつあることを警告している。武士の道は日々死と対面し、如何に死を超越するか、から始まる。
死は武士に限らず、僧侶でも女性でも農民でも「義理をしり、恥をおもい、死する所を思いきる事」には違いはない。では、武士はいかにあるべきか。
武蔵に細川公が「藩士の中にまことの武士がいるか」と尋ねたことがある。そのさい、一同の面々を眺めてから、「一人だけそのような者がいます」と武蔵は答えた。それは都甲太兵衛という人物であった。彼は、天井の梁から刀を糸でつるし、その真下で毎晩寝み、死と対峙しても恐れない心を培っていたという。ちなみに、彼は原城本丸一番乗りの勇士8人中に名を記されている。都甲太兵衛に関しては、森鴎外と直木五十三が小説でもとりあげている。
しかし、武士の死は犬死にであってはならない。死ねば本懐だということではない。如何に死に、如何に勝ち、如何に役立ち、如何に名利を残すような死に方ができるか。「何事においても人にすぐる所を本とし」「戦いにかち」「名をあげ身をたて」「いつでも役にたつ」 そこには、尋常ならざる切磋琢磨が求められる。
これは企業の経営にも求められる基本的な姿勢であることが読み取れる。
次回からはこの点を念頭においてこの書を読み進めたい。 (記 N&T)