東京道塾(とうきょう・みちじゅく) [塾長:手島佑郎] 


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第114回東京道塾 (2007年6月13日)報告

  『無門関』第9回 「 即心即仏 」

 

今回は、類似した公案を取り上げ、禅の本質をより深く理解してもらうよう試みた。

 

1。pp.125 - 127 「30 即心即仏 」

◎ つまり、仏教は、どのようなことを問題にしているのでしょうか。

◎ では、即心即仏とはどのようなことでしょうか。

◎ 仏行を行じるとは、どういうことなのでしょうか。

◎ なぜ一人前の出家であるならば、「即心即仏」と聞くや、いなや耳を被って走り出すのでしょうか。

◎ なぜ「仏」いう言葉を口にしただけで、3日も口を漱ぐのでしょうか。

◎ 「即心即仏」にならって。ビジネスの真髄をいくつか表現してみてください。

 

 唐時代の大梅がその師・馬祖に、「仏とはどういうものですか」と問うた。馬祖は「心、これが仏である」と答えた。

 

 人は自分の心を分かっていないから、不安や悩みが生じし、物事への執着というか煩悩がついてまわる。それでは心とは何か。その主体はどこにあるのか。それが判れば人生諸事の解決のいとぐちを見つけることができる。心を見きわめれば、安らぎに入れる。「即心即仏」である。「仏」と云うと難しいことのように見えるが、心のあり方、自分の主体性が分かって、動揺しなくなった、つまり覚めた者という意味である。

 したがって、仏行とは、心を見つめて悟りに入った先輩たち、諸仏と共に精進してゆくことなのである。仏行は独りでやるものでもない。お釈迦様も弟子たちと一緒に修行した。仏教が時代を越えて永続してきている所以がある。

 

 しかし、これは説明するほどにやさしいことではない。他人の言葉や本に書かれたことが理解できたからといって、それがそのまま悟りにあるわけではない。自分で判った気になるだけの話で、心は何も変わっていない。世間にはそれで判ったような積りで得意になっている者が多い。悟りとか、仏の心がどうのなどと言っている連中に、本当に悟った人はいない。

 

 この大梅は「即心即仏」の言葉によって合点することがあった。そして師のもとを離れ、遠く大梅山に入って草庵を結び、ひたすら即心即仏を信条として、二度と山を下ることはなかった。30年後、ある人が馬祖の意を受けて、馬祖はこの頃「非心非仏」(第33則)と云っていると告げると、大梅は師の馬祖が何を言おうと自分は即心即仏だと動じなかった。この報告を聞いて、馬祖は「梅子熟せり」と高く評価したと伝わっている。悟って以来30年もの間ひたすら求道して初心からぶれない、これがいい。

 

 さて、「即心即仏」にならってビジネスの真髄をあらわすものとして塾長は10個の標語を提示した。

「お客様は神様」、「顧客第一」、「薄利多売」、「変化こそチャンス」(ドラッカー)、「需要と供給」(リカード)、「高品質低価格」(タルムード)、「クレーム即対応」、「Give and Take」、「共存共栄」、「あきない繁盛」(商い=飽きない=空きがない)

 

 東京道塾の出席者の中から、「現在では薄利多売は難しい」という疑問が提出された。一方、他の出席者の企業では、昨年度よりも粗利が低下しているが、営業利益が上がっている。ということは、市場をどう見るかではなくて、企業自体が自己をどう見るか、究極的にはお客様を見つめているかの問題なのであろう。

 

 

2。pp.137 - 1138 「34 智不是道」

◎ 「心は仏ではない。智識は道ではない」という。では、どうすれば仏になれるのでしょうか。

◎ 勉強し学習することは大切ですが、もし南泉和尚がいうように「智不是道」だとすれば、学校教育であれ、社員研修であれ、総じて教育において、より心すべき大切なのは何でしょうか。

 

 第34則は南泉和尚の「心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず」が公案だ

 仏教では心と、仏と、智と、道という四つのキーワードも、あとからくっつけた名前で、やがてはそれが固定観念になって、活きた事実を見逃してしまうと、ここで南泉は警告している。

 

 心が仏でないとしたら何なのか。言葉が解答を出すものではない。

 お釈迦様が出家されたのも自ら解決しないといけない問題があったからだ。彼はマガダ国の王子として生まれ、何一つ不自由のない生活を送っていた。だが、自己の不安や愛憎、生死など悩みについては、どの先生に訊ねても、納得がいく回答がえられなかった。そこで坐禅しながら自ら思惟し、自らをみつめ、ついに自分の心に問題があるとの結論を得た。心を発見するのではなく、すなわち心の持ち方こそが問題であって、心についての知識は何もならない。

 南泉和尚の「心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず」とは、そういう事情を指している。

 我々もお釈迦様の出家の意義を今一度考えるべきだ。

  勉強も知識ではなく身体で体得するもの、研修よりも訓練、解説よりも手本を示すことが大切である。道塾も知識の伝授の場ではない。各自が身体で感得する契機になればいい。それが道塾の存在意義なのである。

 

 企業経営は心の通じる人物をパートナーに選ぶことが大事である。だが、同じ感性、同じ波長ではまさかの時に歯止めが効かなくなる。むしろ、正反対の波長の人を組み合わせることも一法であろう。だが、波長が合うかどうかわからないという中途半端な人は、従業員には採用しても、幹部には不向きであろう。

 

 

 3。pp.11 2- 114 「27 不是心仏 」

◎ 南泉和尚はある僧に、仏教の真髄は「不是心、不是仏 」どころか、「不是物 」とまで説明をひろげた。それを無門は、「郎當、みっともない」とやゆしている。ここで、無門の真意はどういうことだったのでしょうか。

 

 即心即仏や、非心非仏、智是不道という教えは、いまやすっかり有名になっている。そのせいであろうか、ある僧が南泉和尚に人のために説いていない教えがあるかとの質問をした。すると、南泉は「それは、心でなく、仏でなく、物(衆生、万物)でもないという教えだ」と答えた。心や仏を問題にするだけでなく、モノさえも対象とするなという戒めである。

 

 ここまで何もかにも話すとは、なんと親切で寛大なことかと、無門は讃嘆し感心している。

 「そこまで話すのは、郎當、みっともない」という無門のコメントは、一見、貶しである。だが禅では、抑下托上(よくげたくじょう)とか、言貶意揚(げんぽういよう)といって、言葉ではけなしているが実際はその褒めている。

 

 では、なぜその僧に対してここまで南泉和尚が親切に教えたのかといえば、全部話してもどのみち理解できないであろうから、全部語ったのである。他人に教えていない秘密の教えを知りたいなどということ自体、この僧が彼自身を知っていない証拠だ。

 とかく答と結論だけを知りたがる連中が多い。何とかが分かれば世界が見える式の受験あんちょこ症候群の連中である。かれらはプロセスを軽んじる。途中を経験しようとしない。ハウツーだけで仕事をやろうとする者は、この坊主と同じだ。応用力がないからである。受験の模範解答だけを覚えて、プロセスを理解しない連中が秀才といわれ、大企業や官庁でのキャリア組に跋扈している。とかくいう経営者が君臨している点に、現在の日本社会が抱えている問題がある。そういう類いの新入社員や部下は、突き放すしかない。                                 

 乞い願わくば、結論を聞いただけでプロセスの正しさも理解できる人物であってほしい。プロセスを大事にしてこなかった人物は、ザル法的な仕事ばかりして、ついには目標をも崩壊させてしまう。 


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