「わが父・手島郁郎について語る」       手島佑郎 

以下は、1998年10月21日に、NCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所主催ゼミナールにおける手島佑郎の講演の記録です。

 これは、NCC(日本キリスト教協議会)の紀要『出会い』第13巻第2号(1999年11月発行)、pp.3-29に掲載されました。

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 「手島郁郎が目指していたもの」       手島佑郎 

司会(青山玄神父、南山大学神学部名誉教授)

 それではご指名により司会をさせていただきます。皆様も同様かもしれませんが、数年前から私のところにも、この『生命の光』というのが無料で送られて来ています。ずっと読んでいるうちに、手島郁郎(いくろう)の考え方に、私なりに興味を感じておりました。

 それでは、さっそく、ご子息・佑郎(ゆうろう)氏のお話を聞きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

 

はじめに

 みなさん、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました手島佑郎でございます。本日は、NCC宗教研究所主催のゼミナールの場で、父・手島郁郎が目指していたものについて、私の理解を披瀝させていただく機会を得させて頂き、大変光栄に存じます。

 私には兄弟が3人あります。兄弟はいずれもマクヤのメンバーです。私だけは父の死後のマクヤの在り方にいろいろ疑問を感じ、1980年1月にマクヤを出ました。

 しかし本日は自分のことを話すのが主旨ではございません。今日は、父・手島郁郎がどの様な信仰の遍歴をし、何を考えていたかということを限られた時間の中で、ご紹介することが目的であります。しかし、一言、私にも私的発言を許して頂きたい。

 私は、もし私が父・手島郁郎の次男として生まれなかったら、たぶんイエス・キリストを発見することはなかっただろうと思います。そういう信仰の出会いの場を、父を通して得たことについて、私は父に深く感謝しているということを申し上げておきたいのです。

 また、私の母方の祖父は、鈴木高志(たかゆき)と申して、戦前、朝鮮の釜山教会の牧師をいたしておりました。釜山教会は戦後、日本人がみんな引き上げてしまって教会堂は消滅しましたが、現在も釜山教会信徒会という集まりが続いています。

 その釜山教会信徒会代表の一人が、当NCC宗教研究所所長の幸(ゆき)日出男先生でございます。そういうご縁で今日ここに招かれましたことを思いますと、祖父・鈴木高志にも心から感謝いたしたいと存じます。

 ちなみに、母方の祖父・高志の家系は、代々、伊予大洲藩の支藩・新谷藩の家老職を務めていました。彼の父・高学(たかさと、1853-89)は、新谷の最初の尋常小学校の校長を仰せつかりました。高学の死後まももなくして、高志の妹・直子が大阪でキリスト教に触れ、1895年に大阪でキリスト教に改宗しました。翌年、祖父・高志もその弟・学明(さとあき)も、そして曾祖母・千代萬(1902年没)も洗礼を受けました。彼らの祖母・整(1905年没)も1899年に受洗しました。学明は、のちに叔母の松本家の養子になり、1911年にルーテル神学校の第1回生として卒業後、日田、門司などで開拓伝道に献身しました。だが、1919年、遊女として売られた娘が彼の教会に逃げ込んできたのをかくまったために、遊廓の主人たちから暴行を受け、頭部を殴打されたことから健康を害し、1920年に死去する結果となりました。末弟の景輝は、後にキリスト教に触れ、中川家の養子となり、東京の千駄ヶ谷教会牧師などを務めた後、著述家になりました。祖父・鈴木高志は弟妹たちの独立に目処がついてから、植村正久の門を叩き、そこの書生をしながら明治学院神学部でまなび、牧師になりました。伊勢崎、郡山、千駄ヶ谷、御殿山などの諸教会の牧師をし、最後に釜山教会の牧師となりました。祖父は、大東亜戦争の拡大に公然と懸念を表明していたと仄聞しています。

 

手島郁郎研究の資料

 さて、今回、幸先生からご指名をいただきまして、私の手元にある父の在世中に、父が出した蔵書・書物を全て読み返しました。そして、70ページの資料を用意しました。今日これについてはお話するつもりはありません。どうぞ後ほどご参考に供してください。

 とりわけ、次の3点は、手島郁郎のめざした福音運動を知るうえで非常に重要な資料かと存じます。

 第1に、手島郁郎の伝道の志を記した『生命の光』第1号(昭和23年)の中の2点の論文、「神風連思想を嗣ぐもの」と「新しき出発」。

 第2に、『生命の光』第277号に綴った「塚本先生への感謝」の一文。ここには彼の信仰の遍歴が綴られています。

 第3に、亡くなる直前に弟子たちに語った遺訓「牧者会ゼミナールの講話」(『生命の光』第280号)。

 父が亡くなったのは1973年の12月25日の朝です。ですが、74年1月発行の第280号までは全て父が目を通した原稿、または父の筆が入った原稿ですから、父の思想を知る上で間違いない資料です。

 それ以後の父の文物となると、たとえ父の講義録音テープの編集であっても、編集者の視点によってまとめ方が異なり、強調点が異なっています。

 同じ『生命の光』という雑誌であっても、父の生前の原始福音の主張と最近のマクヤの論説とは同一とは断じ得ない部分もあります。そういう面で、『生命の光』という雑誌の内容の変遷は宗教史的研究の対象として興味深いものがあるかもしれません。

 私は最近のマクヤ内部の動向については存知ませんが、父の生前の原始福音運動については、直接知っています。

 私は熊本大学の途中で、1963年、ヘブライ大学に私費留学いたしました。最初の年はアルバイトをしながら勉強し、2年目からはイスラエル政府から奨学金を授与され、哲学と聖書学を専攻して67年に卒業しました。帰国後は、1967年秋から70年夏迄、3年間ですが原始福音キリスト聖書塾事務局で『生命の光』編集をはじめ、聖会や集会の準備、海外の伝道、聖地巡礼旅行団の手配から案内など、様々の仕事をしてきました。

 そこで、私の手許にある様々の資料を使いながら、最初に50分程、OHPを利用してご説明したいと存じます。

 

父が目指していたもの

 手島郁郎の晩年の集会は、たいてい大ホールや体育館、大広間などの床に座布団を敷いて座わり、そこで長時間の聖書講義を聴講するというのが普通でした。一般にキリスト教会というと、礼拝堂は椅子が当り前ですが、マクヤでは殆ど床の上に正座か胡座です。

 熊本での一番最初の頃は椅子式だったのです。その部屋は元フランス料理店の食堂の跡で、正面の壁には横1.5m、縦2mもある絹布の上に描かれた素晴しい聖衆来迎図と、同じサイズの白孔雀図とが掲げてありました。父はその前で聖書講義をしていました。

 ところで、マクヤの中にペンテコステ現象が起きるようになって、椅子の上で祈っているうちに身体が揺れ始め、椅子から落ちるような人が続出するに及び、集会は畳の上や板の間でするように変わったのでした。1955年に熊本の自宅を改築し集会室を広くして以来、集会は基本的に和式で座るようになりました。

 手島郁郎が始めた原始福音というキリスト教運動は何か。一口で言えば、それは、キリスト教の土着化の戦いというよりも、むしろ、日本的キリスト教の実現を目指した生涯であった。このようにまとめていいのではないかと思うのです。

 

郁郎の祖先と両親

 手島は、古く遡れば、南北朝時代に、南朝の拠点となっていた北九州の英彦山権現に仕えていた北面の武士の頭でした。当時は、「豊島」と書いて「てしま」と呼んでいました。豊臣秀吉の朝鮮の役のおりに、秀吉に睨まれて、「豊」の一字を、「手」に改め、恭順の意を表したのが、「手島」と書き始めた起源だと聞いています。その後、細川家の肥後入りのさいに、祖先の一人が招かれて、肥後細川藩士となり、代々熊本で過してきました。私の玄祖父は手島遊川といって、明治維新後、肥後藩の権知藩事をしていました。曽祖父の代に没落し、田畑山林のほとんどを失ってしまいました。

 祖父・手島務(つとむ)は熊本師範学校出身で、若くして島根県に招かれて島根県大原郡の視学として島根県の大東町に赴任していました。父が生まれたのは、その大東町でした。

 英彦山権現との関係もあり、手島の宗教は神道でして、祖父は非常に熱心な敬神家でした。

 祖母・ことは、肥後・八代藩の家老、坂田家の出身で、熊本高等女学校の第1回卒業生、バイオリンなど弾いていました。当時としては、祖父母夫婦は、非常にハイカラなカップルであったようです。

 大東町で祖父母が借りていた家の家主の令嬢は、祖母・手島コトの影響で東京に出て、学問の道に進まれました。のちに日本女子大学の学長になられた上代たの女史です。

 父の人生を眺めると、7つの挫折と8つの祝福があったと私は思います。

 

第1の祝福と挫折

 さて、私の父・手島郁郎の第1の祝福は、福音の発見であります。1922年(大正11年)、12歳のとき、姉に連れられて行った熊本バプテスト教会で、非常に大きな宗教的感動を経験し、以来、熱心にバプテスト教会に通うようになりました。熊本商業学校4年の17歳の時に、祖父に内緒で洗礼を受け、祖母に叱られます。だが祖父は新しい時代の中では耶蘇教もよかろうと寛大に許してくれたそうです。

 第1の挫折は、祖父の命令で熊本商業学校に進学させられたことです。父としては非常に不服でした。なぜならば、手島家は代々士族でしたから、商売というのは卑しむべきものだという家風で育てられてきた。自分は当然、藩校の後身で普通中学である斉々黌に進学するものと思っていた。ところが、どういうわけか商業学校に入れられた。父としては、非常に不満だったようです。それほどに手島家が没落していたのです。

 しかし、そういう環境であったからこそ、その前の年にキリスト教に出会ったのかもしれません。

 

第2の祝福と挫折

 第2の祝福は、その熊本商業の後、今度は長崎高等商業学校に進み、そこで賀川豊彦先生がなさっていた「雲の柱」運動のメンバーとなり、賀川豊彦先生に出会ったことです。

 長崎高商では、第1回YMCA世界ポーイスカウト大会の実行委員、雲の柱運動支部長なども経験し、後年の布教活動で父が発揮した様々な組織力・統率力・企画力、そういうもの素地を養ったようです。また一方では、賀川先生を通じて、佐藤定吉先生、浅野順一先生、塚本虎二先生など、昭和前半のそうそうたるキリスト教の指導的諸先生の知遇を得たことも、父にとっては信仰上の非常に大きな感化だったようです。

 ところが、21歳の時に、長崎高商から東京商科大学(一橋大学)を受けましたが、すべりました。そのことが父にとっては第2の挫折でありました。長崎高商を一番で卒業しているから当然、自分は東京商大に合格すると思っていた。すると、二番三番が入って、一番の自分が落ちた。これは浪人した経験のある人ならお分かりになると思うのですけど、エリートであっただけに、その挫折は非常に強かったわけです。

 そういう時に東京に行っては、浅野先生の家に同年代の中沢洽樹先生などと一緒に泊まり、ヘブライ語の手ほどきを受けています。

 一年後に、母校熊本商業学校の教諭になります。その時、賀川先生に倣って、貧しい子供たちを家に集め、生活の面倒をみていました。だが、若い教員の薄給で慈善事業をするのは自ずと限界があり、長続きはしなかったようです。その熊商時代の父が主宰していた聖書研究会の熱心な会員の一人が、後のキリスト教神学者・北森嘉蔵先生です。

 

第3の挫折:前線追放

 そのうち日中戦争だ、国家総動員法発令だと世情が騒然としはじめます。非戦論講演会を開催したことがある父としては、兵隊になりたくない。どうしたらいいかを杉山元治郎先生に相談した。すると「君は経済学を学んだのだから、軍隊で一兵卒になるよりは、特務機関に入って現地中国の人々の経済安定のために活躍するといい」というアドバイスがあった。

 助言に従い、父は陸軍特務機関に入り、北支那の現地の民生の安定に努めます。だが、中国の民衆を優遇する父のやり方は、特務機関の軍部上層との意見対立を招き、30歳の時ですが、山西省の前線で敵前に追放されたのです。その追放の決定が下るまで、二十日間ほど陸軍拘置所の中の狭い拘置室に閉じ込められて牢獄を経験した。民衆のために善政を勧めて、それが軍上層部の反感を買うとは…。これが第3回目の挫折でした。それは大きな転機……。

 その当時、父と一緒に特務機関で仕事をしていたのが、戦後、関西学院経済学部の教授になられた笹森四郎先生です。

 獄中、たまたま手帳サイズのヨハネ福音書を所持していたので、それを毎日読んだ。ヨハネ伝にはどんなに励まされたかしれないと、後に述懐していました。

 

第3の祝福:実業界での成功

 第3の祝福は、その失敗の後、実業界に身を転じたことです。まず釜山で立石商会という小さな財閥に就職します。翌年1941年には、朝鮮総督府総司令官をなさっていた板垣征四郎中将の知遇で、朝鮮軽合金というジュラルミン再生・再利用会社を設立しました。

 話は前後しますけど、父が生前申していたことに、なぜ自分が伝道に成功したかというと「ぼくが他の牧師さんと違う点があるとすれば、経済学を学び、経済学を教え、そして経営者として経済学を実践したことだ。これはぼくの伝道にとって非常に大きい知恵の泉であった」と、私に語ったことがあります。経営者として経営や経済の現場を経験したことは、父にとって大きな祝福の一つでした。

 

 戦中から戦後へ

 ちょっと話が前後しますが、私の母・照世は、日本基督教会・釜山教会牧師であった鈴木高志の長女です。弟・辰行は裁判官や弁護士をしていましたが、先年亡くなりました。妹の春世は現在東京にいます。末の妹・和世は20年近く前に亡くなりました。

 母は釜山高等女学校から津田塾に進みました。津田塾を卒業したとき、恩師のエカード先生という方が熊本の九州女学院に校長で行かれることになり、ついては若手で英語の出来る教師も必要だと選ばれたのが、母だったのです。そして、熊本の坪井教会で父と出会い、大恋愛の末、昭和10年に結婚したのでした。

 1938年にはグライダーの免許を取り、大熊本航空協会という学生グライダー倶楽部を設立し、学生たちの指導もしました。熊本日日新聞は、熊商教諭の手島は東京オリンピックが来たらグライダー競技を阿蘇山で開催したいと企画していると報道しています。

 そのためにグライダーの免許も取り、教官もやっていた。そうした航空機への関心の延長線上に、ジェラルミン再生技術という当時としては非常に難しい技術の会社、朝鮮軽合金工業の設立が生まれたわけです。続けて1945年には蒙彊金属工業という会社を設立し、蒙古の大同に工場を建てます。

 この会社は、終戦の時には、巨万の軍事予算を持っていました。当時のお金で620万円とか申していました。それを全部京城の軍令部から引き出し、日本銀行券に替え、支那鞄10箱ほどに詰め、8月26日に単身で日本に引き上げました。

 さて、戦後何をすればいいかを、また杉山元治郎先生や賀川豊彦先生に相談に行きました。すると、国民のためにはとにかく食糧確保が大切だということで、その金で「熊本厚生産業」という食糧生産の会社を作りました。主として製粉工場を目指したのですが、原料の小麦が入手できず、海草を粉末にしたりしていました。

 また「ムーンライト」というレストランを自ら経営していました。一説では、母が経営していたかのように伝えられていますが、すべて父の経営でした。

 このムーンライトというのは、帝国ホテルのフランス料理コックだった佐々さんという人がシェフで、米軍将校の間で人気が高い有名店でした。時には父がフライパンを握り、生クリームがたっぷり入ったオムレツを焼いたりもしていました。

 だが、税務申告で、小さなこの店が熊本市の料亭・喫茶店の中で第1位の売上げだということで、過大な課税をされ、税金が払えず、1950年に閉店せざるを得なくなりました。当時は、まだ戦後のインフレが続いており、上手な節税をしなかったのが命取りになったのです。後に父は「ぼくが正直すぎたから、ああなった」と述懐していました。

 

第4の挫折:日本社会党の裏切り

 また、父は経済同友会熊本支部の代表幹事もしておりました。何しろ大金持ちで、日本銀行に当座預金口座を持っていました。いろいろな人が父の金を当てにして、出入りしていました。九州産業交通というバス会社の経営を引き受けろと頼まれたこともありました。

 政治にも関心がありました。賀川先生や杉山先生のつながりで、父は社会党右派に属していました。第1回総選挙の時、じつは立候補したかったのですが、同志たちから「手島君、君は若いから選挙経済参謀をやれ。次の総選挙で出馬すればいい」と言われ、選挙参謀を務めた。というよりも、父のお金を党幹部は当てにしていたわけです。

 ところで、第2回目総選挙のとき、またも選挙参謀をやれと言われ、父の出馬に反対された。2回目もまた社会党熊本支部は父の金を当てにしていたわけです。それで、色々とイザコザが生じた。私の記憶では、1949年の秋、近くで開かれた社会党の支部の会合から帰ってきた父は、顔を殴られ、眼鏡を壊して帰ってきたことがあった。皆から袋叩きにあって帰ってきた。それ以来、バッタリと社会党の話をしなくなった。

 その第2回総選挙のときは、選挙の神様といわれた安達謙三翁に頼まれて、当時のお金で15万円を園田直の選挙資金として匿名で提供しています。

 この政治の夢が破れたことが第4の挫折でした。但し、松前重義先生に対しては、同じクリスチャンということで、個人的に先生の選挙を応援していました。

 

第4の祝福:召命

 そのころ慶徳小学校事件というのが1948年に起きている。これは新制中学の設立のために、歴史がある熊本市内の小学校、慶徳小学校を廃校にしようという占領軍の命令への反対運動です。事件が大きくなったのは昭和23年ですが、命令は昭和22年に出された。父はその反対運動に立ち上がり、教育担当のピーターセンという大尉に睨まれ、あわや沖縄送りになりそうになった。

 もっとも当初は、ピーターセン夫妻を湖畔の料理屋に招待したりして、平和裡に解決しようと一生懸命に努力した。だがウマクいかなかった。挙句の果てに、米軍に好ましからざる人物ということで逮捕命令が出された。それで阿蘇山に父は逃げた。

 その阿蘇の荒野で、「これからの日本に足りないものは食糧ではない。神の言葉だ。いのちの言葉が足りないのだ」と神の黙示に出会った。これが第4の祝福です。

 父の伝記などを読みますと、この事件を契機に、一切の事業を捨てたように記されていますが、実際はそうではなかった。阿蘇から下りた翌年は経済同友会の会議に出席している。実際に会社の経営も何もかも止めたのは、1949年の社会党同志からリンチを受けて以後のことです。

 しかし、山から下りて以後、父は熱心に伝道をはじめた。その証が、雑誌『生命の光』の発刊です。聖書研究会にも力を入れ始めた。最初は社員を集めて集会をしていた。ついで、社員の中から近所の子供たちを集めて集会をする者が出てくるようになった。

 熊本という場所は、明治維新のさい日本の若い学生たちがキリスト教伝道を誓った3バンド(横浜、熊本、札幌)の一つ、熊本バンド発祥の地です。海老名弾正らがキリスト教信仰を誓ったのは、熊本市の西、花岡山の山頂の鐘掛け松という松の木の下でした。戦後、その松が枯れたので、父が中心になってキリスト教会に呼びかけ、1949年1月、2代目の鐘掛け松の植樹をしました。

 熊本バンドの継承、これは父の伝道生涯のひとつのテーマであったと、私は思います。

 話はまたまた前後しますが、阿蘇山は父にとってひじょうに大切な山でした。学生たちとグライダーの飛行訓練をしたのも阿蘇山。1937年、東京から塚本先生をお呼びし、130人もの人々を集めて塚本先生の聖書講演会をしたのも阿蘇山。父が召命を受けたのも阿蘇山。後にマクヤの人々のあいだにペンテコステが起きたのも阿蘇山でした。

 

『生命の光』と無教会

 父が始めた雑誌『生命の光』は1948年10月からですが、これはタブロイド版新聞型の機関誌『生命』から改題したものです。こちらは47年12月から既に発行していました。初期の『生命の光』は九州における無教会雑誌という位置付けでした。

 秀村欣二、関根正雄、政池仁、小池辰雄など、当時新進気鋭の無教会関係の学者が寄稿している。九州大学の松尾春雄教授、西南学院の里見安吉教授などとは特に仲がよかったようです。 父自身が主宰する熊本聖書研究会というのも、あくまでも無教会運動の一端であり、無教会運動の実践として、父は伝道をスタートしたのでした。

 

第5の祝福:幕屋ペンテコステ

 ところが、1950年11月3日の修養会で、父の集会の中に大変化が起きた。ペンテコステ現象といいますか、リバイバル現象といいますか、集会に集う者全員が聖霊に打ちのめされ、大感激大法悦に入れられた。内的な大きなコンバージョン、つまり、頭だけの信仰でなくて本当に情動的なキリストの愛にみんなが泣くというような状況が始まった。それも、祈りが昂って異言となり、霊的エクスタシーに法悦する者が続出しはじめた。

 これを記念して、いまでは毎年11月初めに「幕屋ペンテコステ」記念集会というものを催しています。この幕屋ペンテコステの到来が第5の祝福です。

 

第5の挫折:無教会からの絶縁

 翌51年夏の阿蘇聖会には、当時父の親友であった小池辰雄、関根正雄の両先生が東京から参加され、お二人もペンテコステ体験をされた。それを聞いて、父の恩師・塚本虎二先生は、無教会の中で異言が始まったことを、いったんは喜ばれました。だが、塚本先生のその発言をきっかけに、無教会のみんなが異言や神癒を語らないといけないのかという極端な議論に発展し、大問題になりました。結局、塚本先生は庇いきれなくなり、「手島君は手島君だけでやりなさい」と、独立をうながされました。

 最後まで手島郁郎と親交があったのは、東大の独文教授・小池辰雄先生です。小池先生も無教会の中で独立せざるをえなくなり、ご自分の聖書研究会を武蔵野幕屋という名称で出発させられました。私の記憶では「幕屋」という名称を最初に使われたのは、小池先生であります。

 無教会からの絶縁、これが第5番目の挫折でありました。

 

 異言と神癒

 マクヤが他のキリスト教会から怪訝な目で見られた第1の大きな理由は異言を語ることでした。第2には、神癒を行なうということでした。

 異言については、すでに商業学校教諭時代に、祈っていると法悦状態になり異言を語る経験をしていたと申していました。そして、いま申しあげたように、1950年11月の修養会の最終日に、弟子たち全員がそういう法悦状態、ペンテコステ状況に入り、以来マクヤの祈りはダイナミックになっていったのです。

 しかし、1960年頃になると、いつしかマクヤの中から異言が失われ、ただ大声で叫ぶ祈りになっていました。

 それで、もう一度マクヤに異言を回復しようと、1960年11月、『異言の弁証』という本を著わし(後に、この本は『預言霊修法』と改題増補されます)、今度は異言霊修会というものをいたしました。ここから、皆が異言の祈りをするようになりました。

 とはいえ、父は真に法悦状態の中から噴出する異言を望んだのであって、低級なレベルの異言、作為的な模倣の異言については厳しく戒めていました。

 それよりも深い瞑想を大事にしていました。弟子たちに瞑想の時間を持てと奨励して、そのための手引き書として「霊修の5段階」という冊子を作成し、配付していました。

 神癒に関しては、次のような思い出があります。

 私は4〜5歳の頃、癇が強い子供でした。癇が起きると、お灸をすえられていました。その頃、熊本の水前寺に住んでいました。近くの水前寺公園の裏に、近藤先生いう神道の祈祷師がおられました。私の癇がきついと、「おい佑郎を近藤先生のところへ連れていけ」と母に命じていました。近藤先生は高齢で白髪の方でした。先生に御祈祷してもらうと不思議と私の癇癪はおさまっていました。

 つまり、キリスト教の伝道をはじめる以前から、父は、祈りは聞かれるものだという確信を持っていました。それゆえ、神道の祈祷師の祈りに霊験があるなら、ましてや最高の神キリストの名によって祈る祈りが聞かれないはずはない。では、自分も人のために祈ってあげよう。そういう次第で、父は病気の人のために祈り始めました。

 結核の人、精神病の人、いざりの人、癌の人など、心身に様々の障害をもつ人々が父のもとを訪れるようになりました。

 ただし、信者獲得のために祈ったわけではありません。また、病気治療だけが目的の人にも祈りませんでした。自分は祈祷師ではないというけじめがありました。

 キリストを信じるという人、信仰を得て魂の救いを得たい人のために、一緒に祈ったのです。それらの人々のためにキリストの憐れみを乞うたのです。キリストの神が観念的な無力な神でないことを証ししたかったのです。

 

第6の挫折:清瀬事件 

 無教会から追放されたさらに翌年は、清瀬事件という事が起きます。これが第6の挫折です。

 清瀬事件について新教出版社の「無教会史3」で手島郁郎と無教会を大きく分け隔ててしまう「もみ殺し事件」なる事があったと書いてあります。

 事件はこういう次第でした。1952年のこと、東京・清瀬の国立結核療養所に入院していた結核患者さんたちの中でキリスト教信仰をいだく人々がいました。

 当時、結核はライ病とおなじく世間から隔離され忌み嫌われていた病気です。伝道するといっても、信者もいないので、父は病気の感染を恐れず、結核療養鰍窿宴C病院に伝道に行っていました。そして数多くの人々が信仰を奮い起こしたばかりか、病気も癒されたりしていました。

 同年11月、清瀬で療養していた植木さんという女性の方が入信しました。療養所の近くには、一応退院し、リハビリ中の信徒達が「馬小屋」と称するせまいバラックで共同生活をしていました。そこへ植木さんは医者の反対をおしきってしゃにむに移ってきたのです。加えて、彼女はテンカンか何か精神異常の部分がありました。

 11月なかばに、父の弟子の吉村麒一郎さんが清瀬に伝道にいったさい、たまたま彼女が発作をおこしたので、皆で彼女のためにキリストに執りなしの祈りをささげたのです。その後、彼女の病状が急変し急死してしまいました。

 その報告をきいて、現場にかけつけた彼女の遺族が、彼女は祈りと称して揉み殺されたのだと騒ぎだし、事件になりました。かけつけた田無警察署が彼女の検死をし、その報告書をもとに、慶応大学の法医学の権威・中館教授は「死因は窒息死と推定される。祈りと称して圧迫死させられたと思われる」という鑑定書を書きました。これによって吉村氏は殺人罪で起訴されました。

 だが、熊本大学の世良教授ならびに東大の上野教授がそれぞれ再鑑定し、「長時間にわたるテンカン発作による疲労と自虐の怪我による自然死と推定される」という判定をしました。最終的にこの事件に関して裁判所は吉村氏の無実を認め、同氏は無罪になったのです。以上が事件そのものの概要と経過です。

 だが、事件直後、週刊読売などで「キリスト教のペテン師が祈り殺した」など書き立てられ、無教会のみならず、日本中のキリスト教会が父の伝道を異端視しはじめたのです。

 新聞雑誌などマスコミは、事件がおきると起訴以前でも大きく書き立てるのに、それが無実だと判定されても、もはや二度と大きく無実報道をしないものです。真実はキリストのみ知り給うとはいえ、こういう事件の当事者にとって、世間の誤解や中傷に耐えることは本当につらいことです。

 父は、無教会からは異端だと打ちのめされ、社会からは、あれは祈り殺すキリスト教だとか、そういう悪口を浴び、非常に悔しい思いをさせられたわけです。

 

第6の祝福:『生命の光』101号1万部配布

 清瀬事件を機会に、1952年から5年間くらいは、伝道といっても、ひっそりと熊本や九州だけで逼塞していました。熊本で信者50人前後、長崎や北九州で30人くらいのわずかな数でした。

 しかし、礼拝のたびに、自分たちの内側にはキリストへの感謝がこみ上げて尽きない。この感謝を証しようじゃないかということで、1958年に当時のお金で100万円集めて、『生命の光』特集第101号1万部を全国のキリスト教界に配りました。改めて、自分たちの信仰をキリスト教全体に問うたわけです。

 これを契機に、原始福音は全国に共鳴者を得、東京、大阪、名古屋、北海道と全国に集会支部が広がっていきました。その意味でも、特集号1万部は第6の祝福でした。

 

 貧困と透徹

 父の人生の中で経済的に非常に困難をきわめていた時期が2度ありました。

 1度は、東京商大の入学試験に落ちて、母校熊本商業学校の教師として採用されるまで郷里・熊本でルンペンをしていた1年間。夏の袷1枚で、縄を帯代わりにしていたと申していました。その困窮経験のおかげで、貧しい人や病める人に心から同情できるようになったと申していました。

 2度目は、喫茶店ムーンライト閉店の1950年5月ごろから1953年までの期間でした。51年1月に私の母が亡くなった時、棺をリヤカーに乗せて墓地まで運びました。8畳の部屋の畳6枚分が雨漏りで布団が敷けないほどでした。家族のことを顧みることを忘れるほど、聖書研究と瞑想に没頭していたのです。

 そういう中で、父は次々に優れた著作を生みだしました。1950年に父が最初に書いた本が『聖霊の愛』という本です。非常に薄い本ですけれども、晩年になって、「僕は長い間25年以上伝道してきたけれれども、この聖霊の愛を未だに越えてない」と私に語ったことがあります。これは父の福音宣言の最初の本であり、父が目指した信仰の世界はこの本の中に非常に良く凝縮されています。

 亡くなった妻・照世と、亡くなった川島昇平、渡辺賢一という愛弟子への追悼集『来世への架け橋』もこの時期に執筆されました(1954年出版)。『来世への架け橋』という言葉の中に彼の、その天国へ寄せる思い、天国へつなぐ希望というものが、表現されています。現在の『聖霊の愛』『来世への架け橋』は、その後いろいろ増補され、ずっと厚くなっています。

 少し遅れて1959年に『無垢の愛』という薄い本がありますが、これも父が理解していた福音の世界を如実に描き出しています。

 父の著書には、これらの他に『エリシャ伝』『ヨハネ黙示録講義』『詩篇講義』などたくさんあります。しかし手島郁郎の面目をもっともよく伝えるのは、『聖霊の愛』『来世への架け橋』『無垢の愛』、多分この三つの本であろうかと、私はそのように思います。 

 

 父の再婚と弟子教育

 私の母は、先程も申し上げましたが、1951年1月に亡くなりました。

 53年に父は弟子のひとり、河野千代子と再婚しました。彼女は気丈夫な人で、貧困のどん底にある父と先妻の遺児3人もいる難しい家庭の主婦となったのです。苦労顔を見せない彼女の励ましが、その後の父の伝道の大きな支えになったことは申すまでもありません。この継母に生まれた弟は、ヘブライ語学者の手島勲矢です。

 私の実の母に生まれた兄・寛郎はトランジスタなど電子工学の分野の研究で日本の学会の先駆的研究をしていました。現在はマクヤの本部の仕事をしています。妹・虹子は、原子化学研究者の神藤燿に嫁ぎました。しかし、彼はその後原子化学の研究をやめて、マクヤの伝道者をしています。

 さて、再婚の頃から、父はわりと和服を着るようになりました。和服だとオール・シーズン着られる。それに、この当時、和服は古着屋に行くといくらでも買えた時代でした。

 和服でも聖書講義をするという姿は、この頃から定着しはじめたことです。

 父は何とか福音を日本に定着させたいと願っていた。もっとも、この頃はまだ土着化ということばは使っていませんでした。

 滝浴びやみそぎを実行しはじめたのも、この頃からです。

 だが、父は弟子たちにもっとキリスト教の良き伝統を知ってもらいたいとも願っていました。1953年だったと思うのですけど、スタンレー・ジョンズが熊本に来た時、父はスタンレー・ジョンズに会いに、九州学院へ行っています。

 父はキリスト教の土着化をめざして、日本の古典をよく読んでいましたが、外国の文献にも精通していました。アドルフ・ダイスマンの『パウロの信仰』だとか、インドの福音伝道者サンダー・シングの『宗教的実存』などをガリ版刷りの原文で塾生に読ませたりしていました。

 なんとか本物のキリスト教を弟子たちに理解させようと彼は努力していました。ペンテコステ的カリスマ的信仰も大事だが、一方、きちんとしたキリスト教理解も必要だということを父は重々承知していました。

 父が弟子たちにどのような本を薦めていたか。1961年頃の推薦図書目録にはブルンナーの神学書、バックストンや黒崎幸吉の聖書註解書などがあげられています。せめて英語の聖書註解シリーズICC位は揃えろと、いつも弟子たち勧めていました。

 

父と英語

 そもそも、なぜ父が無教会に移ったかといいますと、父はバプテスト教会で洗礼を受けた後、長崎高商で賀川先生の雲の柱運動に触れ、日本基督教会の礼拝に出るようになります。熊商教諭時代は、熊本の坪井教会で村田四郎牧師に大変私淑していました。ところが村田先生の後任の若い松尾某牧師と意見が合わなかった。それで吉本三平という教会の先輩と一緒に坪井教会を辞め、無教会の方に出入りするようになっていったのです。この吉本さんは、画家・藤田嗣治の従弟で、たいそう英語と数学が出来、見識の広い人でした。

 父も非常に英語が得意だったようです。私の母・照世は津田塾を首席で卒業しているのですが、父は「照世の英語はたいしたことはなかった」と批評していました。長崎高商で父と同級で仲良しだったのが、旺文社の受験英語で有名な原仙作でした。いつも二人で日本人の英語教師をいじめていた、と学生時代を回想していました。

 父はそういう英語力にもの言わせて英語の聖書註解書、神学書などもたくさん読んでいました。ブラウニングやロングフェローの英詩を愛唱していました。そういう素地があったから、独学でギリシャ語も学び、『新約聖書』はギリシャ語の白文で読んでいました。

 一方、禅の公案集『碧巌録』『無門関』なども若い頃から幾度も熟読していました。

 

第7の祝福:聖地巡礼

 父にとっての第7の祝福を数えるとすると、1961年、51歳の時に聖地巡礼を兼ねて世界一周の旅を実現したことです。当時はまだ自由に海外旅行できませんでした。外貨を工面する以上に、出国許可証を取得するのが大変困難なことでした。出国が実現できたのは、父の熊商と長崎高商の先輩で当時、伊藤忠の常務であった戸崎誠喜氏の助力のおかげでした。

 その結果、インド、レバノン、ヨルダン、イスラエル、ギリシャ、イタリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと本当に世界一周しました。インドでは宗教哲学者ラダ・クリシュナンにも会えたし、米国では当時盛んになりつつあったフル・ゴスペル運動の多くの関係者と知己になりました。オーラル・ロバーツに出会ったのも、この旅を通してでした。

 わけても聖地イスラエルに足を踏み入れたことは大きな出来事でした。聖書は想像だけでは読めない。聖地を体験すると聖書の読み方が深くなる。それに建国したばかりのイスラエルの健全な精神にも学ぶことが大きい。弟子たちにもイスラエルを体験させたい。

 それで早速その翌年、父のトップの弟子5人を聖地巡礼に送り出しました。その中の5番目の弟子、片岡時夫さんというのですが、彼は、イスラエルのギルボア山の麓にあるキブツ・ヘフチバのヘブライ語学校ウルパンの第1期生にもぐりこみました。それが端緒となり、翌1963年にマクヤからキブツに留学生を送るということが始まったのです。これが日本とイスラエルのキブツ留学の第1号です。費用は各自自己負担でした。

 その第1回留学生に私も加えてもらいイスラエルへ行ったのです。私の場合は、秋からエルサレムのヘブライ大学に入学しました。在学中は日本からエルサレムを訪ねて来られる方々の面倒もみなければならず、いろいろと大変でした。1964年春、第1回のキリスト新聞社主催聖地巡礼団の受け入れ準備からガイドもしました。日本人向けイスラエル旅行の企画実行の開拓をしたわけです。

 日本のキリスト教界におけるマクヤの神学的評価は別としても、父が聖地イスラエルを訪れた結果、日本とイスラエルとの絆を大きくしていく上で多大の貢献があったことは事実です。

 例えば、イスラエル向け巡礼旅行の開発の中心となってきたテマサ旅行社。これはマクヤの旅行部門です。最初のイスラエル観光省公認日本人ガイドは、皆マクヤの留学生OBでした。

 教文館から発売されベストセラーになった聖地ビデオ『聖書の世界』を撮影した名カメラマン横山匡さんや、『ヘブライ辞典』を編集した若者たちは、マクヤの熱心なメンバーです。最近ユダヤ関係の大手の出版社として著名なミルトスはマクヤの出版社です。義弟・神藤燿は、現在、日本イスラエル親善協会理事長を仰せつかっています。

 エルアル・イスラエル航空の駐日代表になった武田君もマクヤの留学生OBです。

 別の分野では、1971年に父がイスラエルのエイラート市にエレクトーンを贈ったのがきっかけで、その後イスラエル音楽界と日本のヤマハとのつながりに発展しています。

 そういう様々の分野で、マクヤの人々がイスラエルと日本との交流に役立っていることは大変良かったことだと、私は思います。

 

伝道者育成に苦労していた父

 原始福音運動が大きくなるにつれて、父の一つの大きな問題は、伝道者の育成でした。これにはいろいろ苦労しておりました。

 例えば、1964年には『キリスト聖書塾大学講座』というものを発足させる試みをしました。その趣旨書には、「本講座月2回発行し、会員制とし、部外に配付いたしませんと。会員は伝道者・指導者たるべく年に数回スクーリングのため会合し、ゼミナールをいたします。第1期を終了せる者を検定の上、補教師として伝道の第一線にたってもらいます。2期以上の学習者から講師または牧師として伝道資格を認定します」と述べています。

 この頃から、伝道志願者にきちんとした教育を授ける必要を痛感し始めていました。これも、結局のところ、しり切れとんぼで終わるわけです。

 なぜしり切れとんぼで終わったのか。

 私見ですが、これは父だけの問題でなくて、無教会特有の問題であると思います。無教会というのは、しょせん、みんな独学でいくわけです。意思の強い人であれば、最後まで学を全うすることが出来るかもしれない。だが、独学が基本の無教会では、体系立って教えることがないし、体系立って全てを学ぶこともない。「先生」の権威によって講義が進められる。

 そういう無教会的体質を父も受け継いでいた。父は弟子たちに、福音を包括的に教えたかった。キリスト教の歴史や聖書の読み方もきちんと教えたかった。けれども、それだけの人材もいなかった。

 父のもとで聖書講義はあったが、キリスト教全般に関する教育とか、伝道者に必要な資質を十分に伸ばしてあげる指導とかは、必ずしも整備されていなかった。

 本当は、各自がキリストに食らいついて、みずから内面を高め、みずから読み、みずから考え、みずから文章を綴ながら真理を学べばいいのだが、多くの弟子たちは、父の顔をうかがって、父の外面ばかり真似していた。父の内面の精進、イミタチオ・クリスティの生活までも見習うには至らなかった。だから、晩年、父は伝道者達に対して非常に失望していることを、私にたびたび漏らしていました。

 死期を覚悟した父が、原始福音の指導者たちを集めて、亡くなる直前の1973年9月と10月、2度にわたって「牧者会ゼミナール」を催し、自分の亡き後の伝道の方向を指示しました。そのさい、牧者たる心得といって「平信徒伝道を推進せよ」と申しております。これは伝道者育成に限界があることを痛感していたからです。それよりも、社会生活を熟知した平信徒がエバンジェリストに成ってくれるほうが実践的で、伝道にとって有効であると考えたからです。

 

 第7の挫折:愛弟子の離反

 多くの伝道者の中で、父が最も期待していたのは父の伝道の初期から開拓伝道を共にしてくれた桜井信市さんと、1960年ごろから弟子に加わった馬場俊彦さんでした。桜井さんは小池先生の弟子でしたが、父と出会って1952年に東京帝国大学医学部を中退し、マクヤの伝道者になりました。長崎、大阪、東京の開拓伝道は、桜井さんの苦労の成果でした。馬場さんは東大の大学院で宗教哲学を専攻し、明治学院で哲学を教えていた俊秀でした(現在、名城大学名誉教授)。

 二人ともドイツ語、ギリシャ語が抜群に堪能で、父の弟子のなかでは群を抜いたインテリでありました。特に馬場さんは「生命の光」の編集人として、また「大学講座」の運営責任者としても活躍していました。

 ところが、1966年10月、この二人が揃って失踪するという事件が起きました。当時私はイスラエルのヘブライ大学に留学中でしたので、事件の真相については詳らかでありません。父に尋ねても、その詳細を語ってくれませんでした。

 後年、私がマクヤを離れてから、馬場さんに尋ねて判明した内容は、おおよそ次のような経緯でした。

 マクヤでは1951年頃から滝浴びやミソギを信仰の実践として採用していました。冷たい流水の中に入って祈り、自己の心身を清める。あるいは雑念を排除して祈るといってもいいのでしょうか。最初の頃は、男子はパンツ、女子はシミーズなどを着用してみそぎしていました。だが、1967年にイスラエルから帰国した時には、男子はみな六尺褌に変わっていました。じつは、この少し前に事件は起きていたのです。

 というのは、1966年夏、父が大阪から東京へ移り、桜井さんが東京から大阪へと、伝道地を交代しました。その時、父は東京の教友のために近郊の海で修養会をし、参加した人々の男子に六尺褌の着用を命じたのです。褌を締めて、気を引き締め、心機一新して伝道に励もうという狙いであったのです。

 このことを聞いた桜井さんは、では大阪は六尺ではなく、ゆる褌で気楽にやりましょうと、東京とはちがう提案をした。それをわざわざ東京に通報する人がいた。「桜井さんは手島先生と違うことを始めている」と。

 これを耳にした父は、「何? 桜井は僕と違うことを教友に教えている。彼は僕を誹謗し始めていると?」と、烈火のごとく怒ったのです。

 父はどの弟子をも愛していました。どの弟子をも信頼していました。だから、どの弟子のことばも信じました。そのために第1報が誤報であったり、歪曲した情報であったりすると、それを全面的に信じて、自分なりの判断を下してしまう。いったんそうなると、第2報で真実が届いても、なかなか見解を改めてもらえませんでした。

 桜井・馬場事件はまさにこのケースに該当しました。2人の弟子は、大先生が東京へ移った後の大阪の悲壮感ただよう集会を、なんとか解きほぐそうと努力していました。だが、人を介して父に伝わった情報は、2人が違うことを始めている、手島批判をしているということであった。そこで、父は委細を確かめる前に激怒したのです。父は桜井さんと話し合ったが、桜井さんは師の前で弁明も事情説明さえもしない。そのため容易に父の憤りは解けなかったようです。馬場さんは2人の間で板ばさみになっていた。

 尊敬する師から信頼されていないと思うと、桜井さんは悩みながら次の日、マクヤから去った。桜井さんが去ったのを見て、馬場さんは、師に忠実な弟子・桜井さんを信頼しない師・手島の姿に失望し彼もまた、次の夜、マクヤから去った。

 桜井・馬場事件は、一方からは2人の弟子の造反失敗と夜逃げだと捉えられています。他方からは、中傷に過剰反応した師への失望と離別であったわけです。

 何はともあれ、この事件を契機に、父はアブサロムに裏切られたダビデのような心境になってか、好んで詩篇の講義をするようになりました。

 

火渡りを始めた経緯

 マクヤが他のキリスト教会から誤解を招いたものの一つに火渡りがあります。火渡りを宗教的実践として採用した発端は次のような経緯です。

 熊本市から南東にバスで1時間ほど行った田舎に木山不動という寺があります。そこでは毎年2月に火渡りの荒行がおこなわれ、素足で火床を渡ると、その年の無病息災、家内安全が約束されることで有名でした。

 たしか1958年の2月のことです。父はそれを見物に行った。護摩を焚いて、行者が気合とともに火の道を渡る。

 父はそれを見ていて、ふと思った。キリスト教は自分たちが最高の宗教だ、全能で最高の神に仕えている、なにも恐れるものはないと誇る。一方、不動尊信仰など偶像崇拝だと軽蔑している。だが、最高の神により頼んでいるのであれば、火など怖くないはずだ。本当に自分は火を恐れないだろうか。

 そう思うと、自分自身の信仰を試してみたくなった。神を試すよりも、自分が本当に恐れなき信仰に生きているか。万一、火の中、水の中にでも殉教する覚悟が出来ているかどうか。父は、やにわに火渡りの行列の中に加わった。驚いたのは周囲の人々である。いきなり、見知らぬ男が、お経も唱えないで、スタスタと火の中を渡った。火傷も怪我もしなかった。

 こういう体験をした上で、自分が渡れたから、今度の聖会で皆も火渡りをしようという次第になった。火渡りの意義は、神を試みるのではなくて、殉教する覚悟ができているかどうかであった。私の経験ですが、実際に火渡りをしてみると、よしんば火傷しても、自分の信ツが足らなかった、キリストに申し訳ない。そう自分を反省するのです。渡れば渡ったで、自分のような信仰の薄い者が火を渡れたのは、何と神の愛は大きいことか、とかえって感謝が増す。以来、火渡りはマクヤの定例行事になったのです。

 マクヤでは、火渡りをするさいにダニエル書3章の記事を引用します。バビロンのネブカデネザル王の時代に、ダニエルの友人、シャデラク、メシャク、アベデネゴが火の中に入れられたが無事に助かったという記事です。そういう記事を読んで、文字通りに実験する点で、父の信仰は極めてファンダメンタルな一面を持っていました。それは、同時にエンペリカルで実験的信仰であったとも申せましょう。

 

原始福音と幕屋主義

 教会から離れ、無教会から離れたことで、父は日本的キリスト教の在り方を父なりに真剣に考えるにいったのです。

 父の伝道をふり返って眺めると、その運動の呼称の変遷に父の意識の変化を見ることができます。最初は、無教会熊本聖書研究会。次に、無教会神学塾、無教会聖書塾、神の幕屋聖書塾、神の幕屋原始福音キリスト聖書塾と変わっていきました。

 幕屋という名称は1953年ごろから使い始めています。熊本幕屋といえば、熊本の集会とか、熊本のグループという意味でした。これは、先程も申し上げた通り、最初に小池辰雄先生がご自分の集会を「武蔵野幕屋」と呼ばれたことに倣ったのが始まりです。

 ですが、父は自分が主宰する聖書講義の場については、ずっと「無教会聖書塾」という名称で呼んでいました。1958年になると『生命の光』が「神の幕屋月報」とサブタイトルをつけ始めます。

 自分が目指している福音を「原始福音」と定義したのは、1950年の『聖霊の愛』からです。だが、じっさいに原始福音運動と自ら呼び始めたのは58年夏ごろからでした。60年代になると、『生命の光』にも「原始福音信仰証誌」というサブタイトルがつくようになります。

 原始福音という目標を掲げて、父は神学や教義教理に毒されていない原始キリスト教時代の聖霊がたゆとうカリスマ的信仰の再現をめざしていました。

 幕屋ということによって、神が臨在する場を目指したのみでなく、教会堂や伽藍に頼らない礼拝形式を推進しました。

 信徒が礼拝堂を持とう、修養施設を建てよう、本部用の土地建物を購入しようと提案しても、父は最終的にはいつも却下していました。それだけのお金があったら、伝道に使おうといって、頑に不動産取得に反対しました。

 父が所有していた不動産といえば、戦後すぐに熊本市辛島町に購入した自宅と熊本の墓地だけです。1964年になって、伝道用にといって、ある信徒の方が大阪の天王寺にあった民家風の小さな廃寺を、寄進されました。以上3点が父の不動産でした。そして、いずれも伝道のために提供していました。父が亡くなったとき、父名義の貯金はわずか100万円しかありませんでした。父は本当にお金に淡泊な人でした。

 新年集会をするとか、夏期聖会をするとなると、最初の頃は、阿蘇・垂玉の温泉旅館の湯治場を借りきって開催していました。あるいは、九州の英彦山権現の宿坊を借りたりしていました。

 だが、次第に参加者が1000人、2000人と増えるにつれ簡単に収容できなくなり、高野山、比叡山、身延山、大雄山、秋葉山・可睡斎などの宿坊を借りたり、伊勢神宮の会館を借りたりしました。伊豆・伊東では、市立文化会館をメイン会場に伊東市内のホテルを10軒も借り切るなどもしました。

 不動産を持たない。この原則は父が提唱した幕屋主義の重要な基本の一つでした。

 

旧約としての日本の宗教

 父は、日本の宗教伝統を尊敬してこそ、日本的キリスト教が実現できると考えていた。これも、好んで仏教や神道の施設を利用した理由です。とくに日蓮、白隠、良寛などに尊敬の念を払っていました。こうした考えを父が抱くようになった背景には、手島家の祖先が英彦山権現に由来をもっていたこととも関係があるかもしれません。何とか祖先伝来の宗教精神を生かして、キリスト教への積極的献身につなぎたかったのです。

 じっさい、父は、日本の伝統的宗教という旧約の土台の上に、キリスト教の福音という新約を接ぎ木することによって、福音の完成ができると確信していたのです。

 そのことは『生命の光』第1号に既に表明されています。

 第1号には、「神風連思想を嗣ぐもの」と題する一文があります。熊本では明治維新の後、1876年に神風連の乱という事件がありました。明治維新の王政復古が神政復古の実現でなかったことに不満をもつ神道系グループの反乱運動です。

 彼等は「神事は本なり、人事は末なり」といって、神意の地上具現できる政治を目指した。だが「人間の暴力的殺逆手段を敢えてしたところに、彼等の神観の欠陥と信仰の不純、倫理性と同胞愛の欠如を見る」と父は、神風連を批判している。

 それよりも「平和国日本の政治原理は先ずキリスト教の神の発見より始まらねばならなぬ。神風連の主張した『神中心の信仰を基調とする新国家の建設』思想の徹底をキリスト教に於いて私は見る。キリストの説きし高い神観に神風連思想が接ぎ木されるときに、我らの祖先が夢見た神本政治思想の完成をそこに見出すであろう。旧約なければ新約なし。キリスト教こそこの神風連の旧約を完成する」と、父は述べている。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」というキリストの祈りこそ、日本的旧約・神風連を完成する新約だと捉えていたのです。

 父はキリスト教が日本人にとって異質なものでないことを何とか人々に分かってもらいたいと苦心していました。

 『聖霊の愛』の中では、父は次のように述べています。

 古代の日本人が「危急に際しては御霊の恩寵(ふゆ)により頼み、おたけびしては神霊の発動を喚び、その守護に救はれた数多くの史実と教訓、これを載せているのが古事記であり、日本書紀やその他の古典である」(「聖霊の愛」8頁)と、日本の歴史を顧みる。

 一方、「逆境に際しては義人ヨブの如く、神に向い、神を求めて叫ばざるを得ない。祈りは神に全くその身を委ねる心である。暫くはその雄たけびが虚空に反響するのみのようであっても、必ずや神は御自身の秘密を示し、それに答へ給うものである」(51頁)と、叫んで祈る者に神が恩寵をもって答えることを教えている。

 大声で叫んで祈る場合があることを教えていた点でも、父はユニークでした。

 

父の天皇観

 『生命の光』1949年5月号には、九大工学部の松尾春雄教授が「皇室のために祈る」と題して、「正しいキリスト教が皇室に迎えられるに至らんことを」という一文を発表しています。これを受けて、同年5月号では「遺れる神につきて」と題する父の巻頭言が載っています。

 日本書紀の中で仲哀天皇が熊襲征伐に失敗したのは、仲哀天皇が「遺れる神」があることを信じなかったからだという記事があります。仲哀天皇がその存在を疑った「遺れる神」とは「全宇宙の主宰者に在ます唯一の眞の神 聖書の傳ふるヤハベ 」であると。

 「私は祈り且つ願う、天皇陛下、今次九州に巡幸遊さるに就ては、高天原の神世を懐古され、仲哀天皇の故事を鑑み給い、陛下が新に『遺れる神』のみを齋(いつ)き祭つらるるに至り給わんことを」といって、父もまた大真面目に天皇がキリスト教を信奉するようにと勧めています。

 皇室にキリスト教改宗を勧めるというのは、今では笑われますが、当時、無教会などの間では、本気でそれを期待する人々がたくさんいたのです。

 父もそう思う一人でしたから、印刷用紙の無い時代に、1冊だけ特別に金文字で『生命の光』と刷って、それを昭和天皇に献本したりしていました。

 父は天皇制反対ではなかった。しかし、昭和天皇に戦争責任がないとは思っていなかった。それどころか1958年に昭和天皇が熊本に御幸された時、「戦争責任を取って、昭和天皇よ、ご退位なされませ」と建白書を出している。実際に退位勧告を天皇に提出したクリスチャンは案外、父をおいて他にいないのかもしれません。

 

 伊勢神宮とユダヤ同祖論

 話が前後しますが、伊勢神宮では聖会を2回開催しました。

 マクヤの人々の中には内宮の前で参拝する人がいました。そのことを聞いて、父は「ぼくは絶対に参拝しない。伊勢を尊敬することと、神社に参拝することは別だ。ぼくはキリストしか拝まない」と申しました。宗教的帰依と宗教的貞操とのけじめを区別していました。代々木に住んでいた頃は、毎朝明治神宮を散歩していましたが、あくまでも散歩であって、神宮で参拝するようなことは致しませんでした。

 クリスチャンとしての矜持、誇りを持ち、日本の神社仏閣へ敬意を表しても、参拝はしなかった。厳格に宗教的けじめを区別していました。

 父が伊勢神宮を2度も聖会の会場に選んだ理由の一つは、日本・ユダヤ同祖論に賛成していたからでもあります。父は佐伯敏郎博士の『景教の研究』や川守田英二牧師の『日本ヘブル詩歌の研究』を全面的に受け入れていました。

 ですから伊勢神宮の参道の灯篭に彫られた「カゴメ紋」を、日本に帰化したユダヤ人・秦氏が伝えた「ダビデの星」だと堅く信じていました。伊勢音頭はヘブライ語の歌が訛ったものだと信じていました。火伏せの行事で知られる秋葉神社は、ラビ・アキバが火刑に処せられたことに由来すると考えていました。日本ユダヤ同祖論への傾倒は、そもそも、最初は日本人になんとかしてキリスト教は異質でないということを分かってもらうための方便でした。だが、残念なことですが、晩年の父には方便の域を越えて、信仰の一部になっていました。

 内村鑑三先生やホーリネス教会の中田重治先生と同様、イスラエル国の回復がやがてメシアの再臨につながるのだという、エモーショナルな再臨待望も父の信仰の一部でした。

 1971年には、『Ancient Jewish Diaspora in Japan』という英文の冊子を作成し、イスラエルのシャザール大統領に進呈したりしています。今もマクヤの人々のイスラエル巡礼は、カゴメ印(ダビテの星)の法被を皆に着せて、エルサレムを行進する。あれはイスラエルの人々への親愛の情の表明でもあります。

 父が書いた英文の冊子を読んで、それを下敷きに、日・ユ同祖論をもっと大々的に宣伝しているのがラビ・トケイヤーです。 

 念のために申しますが、私・手島佑郎は日本ユダヤ同祖論には賛成できません。(巻末の註を参照されたい)

 

父と十字架

 父のもう一つの特筆すべきことは、十字架を使いたがりませんでした。父には、キリストが磔になった十字架を信仰のシンポルとしてぶらさげるようなことは、痛ましくてできない。

 無教会の中で父たちのペンテコステ現象が問題になったときに、最終的には政池仁さんの発言、「手島の信仰には十字架がない」が決め手になって、無教会は手島と袂を分かったほどです。その批評は当たっている。父にとっては、十字架は見るに忍びなかった、耐えられなかった。だから十字架、自分の信仰のシンボルとして使うことをしなかった。むしろ「聖霊の愛」という烽フで福音を捉えようとしていたのです。

 1966年頃からユダヤ教の聖所のシンボルである7枝の燭台(メノラー)を礼拝で使用するようになりました。

 第1に、メノラーはその奥に神の臨在の場(至聖所)あることの象徴だからです。第2に、メノラーの左右に二人の油注がれた者(祭司と王)が立つというゼカリア書4章が、伝道者と平信徒との協力を象徴しているからです。

 68年からはメノラーをあしらったマクヤのバッジを着用しはじめました。ただしメノラーを礼拝するということは、父は勧めませんでした。

 

宣教師嫌いの父

 父は、ダイスマンのような理知的なものを読むかと思うと、サンダー・シングのような霊的、瞑想的なものを読む。

 1960年代になってアメリカの方で所謂、フル・ゴスペル運動が盛んになってきたとき、父は、1961年聖地巡礼の途中アメリカへ廻り、オーラル・ロバーツ牧師と仲良くなりました。オーラル・ロバーツ大学が出来たとき、第1期生としてマクヤの若い学生を5人も入学させた程です。

 ジム・ブラウン、ダビッド・デュプレッシーなど幾人ものフル・ゴスペル系の牧師さんや宣教師をその交友の中から日本に招きました。父は海外の宣教本部から資金援助してもらって日本に来る宣教師を嫌いでしたが、伝道場所のない外人宣教師に伝道の機会を提供するのはやぶさかでありませんでした。ですけど、苦労して自活しているエバンジェリストに対しては心を開き、進んでそういう人との交流を盛んにやっていました。

 ふだんの父の言動を見ていると、宣教師への批判が辛辣ですから、すごく唯我独尊的に思われる面もある。しかし優れた先生に出会って、それらの人々から信仰を学ぶことも父は大切にしておりました。

 

礼拝の梯子をした父

 1970年から77年まで私はニューヨークのアメリカ・ユダヤ神学校に留学しておりました。72年11月、父がアメリカに来た事があります。

 その時、「佑郎、お前はユダヤ教の礼拝に出ているか」と父が尋ねました。私は「出ていません」と答えました。自分はクリスチャであるからユダヤ人の礼拝を覗いても、その礼拝に加わるのはいけないと、私は思っていたわけです。

 すると、「それは、お前、違うよ。同じ神だろう。パウロやイエスが頭を下げたその雰囲気を知らないで、文字だけを読んでユダヤ教が分かると思ってはいけない」と、諭されました。これは、私にとって非常に大きなショックでした。

 日曜日の朝、父を5番街のホテルに迎えに行ったら、不在なのです。午後1時ごろ戻ってきました。日曜日の朝から何処へ行ったのか尋ねたところ、「いくつか教会の日曜日礼拝を梯子してきた。マーブル・カレジット・チャーチへ行って、ヴィンセント・ピエール牧師の説教を聞いてきた。さすが、立派な説教であった」と答えました。

 そればかりか、「お前はいいなぁ、原始福音の家に生まれて、霊魂が満たされているから…。だから、お前は教会の礼拝にも出ない。僕は一生、魂が渇いているから、いい先生に学べるなら、何処へでも行くのだよ」と、凄い皮肉を申しました。

 それ以後、私は心を開いてユダヤ教の礼拝にも出るようになりました。またニューヨーク日米合同教会にも加えさせていただきました。あそこからキリスト教、キリスト教会というものについてフ私の学びが始まったのです。ジャスティン春山牧師のあの教会で、心の交わりを大切にすることを私は教わりました。

 

外界との交流

 父は戦時中、韓国・朝鮮で仕事をしていたような経緯もあって、朝鮮の人たちに対して非常に父は好意的でした。熊本の家の向かいに朝鮮総連の熊本支部があって、そこが何か事件があって、警察の手入れがあった。そのときに、父は、朝鮮総連の共産主義の人々のために、弁護人役を買って出たこともあります。父は共産主義を嫌っていましたが、人間として接する場合はやぶさかでなかったのです。

 他方、父は、大本教や金光教、天理教、生長の家などの教祖の方々の生き方、その伝道の仕方というものにも率先して学んでいました。

 ある時、父の伴をして神戸へ行った帰途、生長の家の谷口雅春先生一行と同じ列車に乗り合わせました。その風格を遠目に見て、父は、「さすがだなあ、谷口先生は立派だなあ」と敬意を表していました。

 父の生き方は、キリスト教の中では確かに非常にラディカルでした。それでいて生き方や道は異なっても、他宗教の尊敬すべきものは尊敬していました。ですから、マクヤがキリスト教の外側にはみ出る事態になっていても、仏教の運動家や、キリスト教の心ある指導者の方々とも、機会があれば交流を持っていました。

 

第8の祝福:クリスマスの朝に召天

 晩年、父は肝硬変を病み、主治医から絶対安静を命じられていました。しかし死期を悟った父は、病める身体に鞭を打ち、1973年9月と10月、2度にわたって全国の弟子たちを集め、浜松の奥、秋葉山の半僧坊で牧者会ゼミナールを招集し、自分の亡き後のマクヤの在り方を指示しました。

 そればかりか永年の念願であったラジオ放送を10月から3ヵ月にわたって続け、あまつさえ第4次中東戦争勃発のさいには、イスラエル支援の大キャンペーンを東京・銀座で指揮しました。そのことが残り少ない父の寿命をいっそう縮めました。

 そして1973年12月25日の明け方、召天しました。当時、私は米国留学中で、父の臨終には会えませんでした。

 父の最後の言葉は、「ハレルヤ」の一言であったと近親の者から聞いております。愛するキリストの誕生日の朝に召天できたことは、父に与えられた神からの最後の祝福でありました。

 父・手島郁郎の63年の一生は、まさに波乱万丈でした。困難も栄光も、毀誉褒貶もありました。しかし、つねにキリストの聖霊の愛に導かれていました。まことに至福の人生であったのではないでしょうか。

                                  「わが父・手島佑郎」 完 

                     

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(註: 日ユ同祖論について)

 渡来人の中には、遠くシルクロードを経て、ユダヤ人の祖先もいたことでしょう。しかし、日本人の祖先がユダヤ人/イスラエル民族だという説には論理的飛躍があり、歴史的考証も欠けています。その説を正当化するためには、第1に、朝鮮半島におけるユダヤ人の足跡をまず考証しなければなりません。

 第2に、ユダヤ人が日本人の祖先だというのであれば、ユダヤ人がもっとも重んじる宗教的週休制度、毎週土曜日の「安息日、シャバット」が、なぜ古来、日本人の間になかったのでしょうか。

 第3に、日本の神社の神域配置図がユダヤ教の神殿配置と似ているからといって、それだけで、日ユ同祖論を唱えることにも宗教学的考証の飛躍があります。類似の配置は、他の宗教にも見られることです。

 第4に、日本語とヘブライ語との間に類似の発音の単語があるからといって、だから日本人の祖先はユダヤ人であったというのは、たんなるこじつけ以上のものでしかありません。言語学的にはナンセンスです。

 第5に、伊勢神宮の「カゴメ紋」とユダヤ教の「ダビデの星」の混同視です。

 海洋民族研究学者の方々の意見によれば、「カゴメ紋」はもともと漁業用の網の目紋の1つだそうです。漁業で生活を立ててきた海洋民族の間では、網やカゴで魔物を封じ込めようという信仰があり、アミ目、カゴメを魔除けにしていました。これは東南アジアの海洋民族も含めて、広く共通している風習です。伊勢神宮のルーツは海部(アマ)族の祭神にあり、神宮への参道をカゴメ紋で魔物から守る目的で、その参道の灯籠にカゴメ紋を彫ったというのが妥当な見方ではないでしょうか。

 第6に、イセ海老やアワビ貝などが、伊勢神宮では神前に供えられる。ユダヤ教ではこれらは穢れた食物とされ、ユダヤ教徒は食べませんし、ましてや神への供え物にはしません。それでも、日ユ同祖論者の方々は伊勢神宮とユダや教とを結び付けるのでしょうか。

(2008.11.25. 手島佑郎)

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