以下は仏教の月刊誌「大法
輪」2005年8月号に掲載された小生の論考:
「 靖国問題を考える 」
を一部手直ししたものです。
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「 靖国問題を 考える 」 手島佑郎 (2013/8/23一部訂正)
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[ 日本人と神道 ]
毎年8月になると靖国神社問題で国内外がもめている。
というのも、この時期に
なると毎年新聞が取り上げるからである。
察するに、首相の靖国神
社参拝に反対の立場をとるのは、国民全体からすれば反対派は全体の20%にも満たない。公明党も表
向きは反対を唱えているが、内心ではそれほど反対ではないようだ。国民の3分の2は首相の靖国参拝容認である。
というのは、日本人と神
道とは切っても切り離せない関係である。なぜならば、日本人の宗教意識は神道によって育まれ、神道によって培われてきたからである。
今でこそ日本は仏教国家
であるかのような観を呈しているが、日本人の生活習慣の根底にひそむ神道的要素は依然として強固である。例えばお盆とお正月。これは、仏教伝来以前の日本
人の生活にずっと根差してきた祖先祭の慣習である。仏教による加持祈祷、これも神道のお祓いの仏教版である。結論から言えば、仏教は神道と習合することに
よって日本人の間に定着することに成功したのである。
それは、北欧人と北欧の
神話伝説ぬきに北欧のキリスト教が成立せず、ローマ人とローマ宗教伝統を無視したローマ・カトリック教会が存在せず、西インド諸島住民とその宗教伝統を無
視して同地域でのキリスト教布教があり得なかったのと同様である。
いずれにせよ、神道的価
値観というものが、日本人の精神生活や生活習慣のなかに深く根を張っている。だから、キリスト教であれ、仏教であれ、いや無神論の共産主義であれ、日本人
の生活に根差した伝統的でかつ無意識に行なわれている神道的習慣を頭から無視したのでは、日本人に新しい価値観を持ち込めない。
[ 政教分離とは ]
首相の靖国神社参拝に反
対する人々の根拠は大別して3点である。(1)首相の神社参拝は政教分離の原則に違反する、(2)靖国神社には東京裁判で処刑されたA級戦犯が合祀されているから、軍国主義の肯定につながる、(3)首相の靖国参拝は韓国と中国を刺激する。以上の理由で参拝を慎むべきだと主張する。
筆者は、これらの主張に
対して無条件賛成も、無条件反対もしない。なぜなら、これら3点の意見は議論を尽くしていないからである。
第1の政教分離の原則に
関していえば、これは一方で政治が宗教教団の活動を規制しないことであり、他方で宗教が政治に容喙しないということである。
政教分離の原則が徹底し
ている英国では、国王の戴冠式はウェストミンスター寺院で行なわれる。議員は聖書に手をおいて議員としての職責を全うしますと宣誓する。米国でも、大統領
は就任のさいに聖書に手をおいて宣誓する。それどころかホワイトハウスに宗教関係者を招いて朝食祈祷会を開催する。神の前で敬虔であるという行為こそ、大
統領としての謙遜と職務への忠実の証明だと理解されている。
筆者の考えでは、首相が
ある宗教教団で礼拝または参拝しても、その宗教団体が政治への介入をしない限り、政教分離の原則には違反しない。首相が「個人的発意」で参拝する限りにお
いては、靖国神社であろうと、伊勢神宮であろうと、昭和天皇陵であろうと、それは彼の宗教の自由である。また首相が参拝のさいに公用車を使ったとしても、
警護治安などを考慮すれば、そこまで咎めるわけにはゆくまい。
しかし、例えば、小泉首
相の靖国参拝への中国からの非難に対して、日本政府や与党の要人が、「それは内政干渉だ」と反論した。彼等
が首相の靖国参拝を「内政干渉」という用語で反論したとすれば、それは明らかに靖国参拝を国内の政治行為だと日本の政治家自身が考えている証拠となる。も
しそうであるとすれば、靖国参拝は政教分離の原則に抵触することになろう。
[ 戦犯をどう考えるか
]
第2番目のA級戦犯合祀
問題に関しては、東条首相らの合祀に先だって、合祀が正当か否かの議論を国民的に十分尽くしていなかったことに問題がある。
1978年にA級戦犯者
が靖国神社に合祀されたさいの背景には、つぎのような理由付けがあった。すなわち、東条首相らは連合国側の法廷によって有罪となり処刑された。それはいわ
ば連合国軍の攻撃を受けて戦死した帝国陸海軍の将兵と同じ死だ。だからA級戦犯者たちも一般の将兵と同じく靖国神社に合祀されて何の不都合もないと。
ここで問題になるのは、
A級戦犯だから合祀に不適当であるとか、A級戦犯でも合祀されてかまわないという議論の在り方である。なぜならば、この議論はB・C級戦犯で刑死した人々
の合祀の是非を論じていないからである。
靖国神社はABC級の区
分に関係なく戦犯を「昭和殉難者」として、他の戦没者と一緒に祭っている。だが、これは靖国神社の理論であって、国民の合意による判断ではない。
A級戦犯の合祀の是非を
論じるのであれば、B・C級戦犯での合祀の是非についても議論すべきだ。殉職者とは何をもって殉職とするかの定義も必要である。
そのためには、日本国民
自身による大東亜戦争への真摯な歴史反省と公平な責任追及とが為されなければならない。連合国側が戦犯と指名したことと、日本国民自身が戦争犯罪とは何か
を吟味することと同一でない。連合国側の戦犯指定は、占領地での略奪・処刑や捕虜虐待、そして戦争責任を問うものであった。だが国民自身による戦争犯罪の
吟味となれば、兵士を虐待した上官、特攻隊や人間魚雷を提唱した将校、さらには軍の公金等を着服した関係者まで含めることになったであろう。
戦争責任ということにな
れば、当時、戦争美談を書き立てた新聞やジャーナリズムの自己批判もなされるべきである。そういう自己批判の真剣な努力を怠って、ただ「二度と過ちはくり
かえしてはいけない」と言うだけでは、歴史から目をそらしたことになる。
物事にはつねに賛成と反
対、右と左の意見の人がいるものだ。したがって、歴史認識の内容も右と左とでは当然ちがってこよう。だからこそ、一方に都合の良い資料だけではなく、さま
ざまな資料を徹底的に検証し、過去の歴史認識に関しても一定の国民的合意を築く努力が必要である。
[ 外交の在り方 ]
ところで、戦前・戦中と
日本は侵出した先々で一方的に神社を建て、現地の人々に参拝を強制した。これについて、日本政府が旧占領地域国民に心から謝罪していないことも、首相の靖
国参拝のたびにクレームが出る原因なのである。
韓国や中国と日本の不協
和音の根底には、宗教的屈辱意識もあるのだ。それを看過して、ただ経済的外交だけをうまく進めようとするから、事あるたびに歴史的感情論を蒸し返す結果に
なる。
もし歴史認識の点で、韓
国、中国と対立があるというのであれば、歴史教科書問題も含めて、3カ国の学者を多数動員して、3カ国共同研究をすべきだ。是々非々すべての相違点を検証
しなおし、三者の納得いく結論を出すべきである。
外交というのは、一方的
に非難し、一方的に非難される関係ではない。米国がミサイル協定を破棄するといえば、ロシアが対抗処置を取る用意があると牽制するように、つねに双方が対
抗拮抗しながら交渉すべきである。どの国に対しても、堂々と対抗議論を提出し、双方の歩み寄りをはかるべきである。
その努力をせずに、ただ
外国の威圧に右往左往するのでは、国家の威信は無きに等しい。
[ 勝てば官軍の理論 ]
しかし筆者は、靖国神社
問題の本質はもっと別の次元にあると考えている。それは、「勝てば官軍」の理論である。
そもそも、靖国神社の発
端となったのは、幕末の1862年に長州藩士・福羽美静らが、「国事に倒れた」勤王志士の慰霊のため密かに京都につくった「招魂の祠(やしろ)」がルーツ
で
る。それを1869年(明治2年)東京に移転させ「招魂社」とし、戌辰戦争の戦没者等を合祀した。79年には西南戦争の戦没者も加えて「靖国神社」と改称
した。以後、日清戦争、日露戦争、第1次大戦の戦没者が合祀されていく。
もし幕末に勤王派が敗れ
ておれば、今日の靖国神社は有りえないのである。
ところで、「国事」とい
うのであれば、佐幕派も国事のために倒れたのである。
勤王派だけが正義で、彼
等だけが国事に奔走していたのではない。さらに言えば、戌辰戦争で倒れた会津や越後の人々は時の利を得なかっただけのことである。
江戸城引き渡しの後、唯
一幕臣で処刑された小栗上野介は、遣米使節として日米初の為替レート交渉を成功させ、外国奉行、勘定奉行、海軍奉行などを歴任し、幕府が倒れても日本が勝
ち残るための準備を整えていた。彼などは幕末最大の国事功労者であるけれども、官軍の論理は彼を国賊扱いにしたままである。
西郷隆盛は西南戦争で敗
れ、その部下たちも国賊とされた。西郷の死後、明治天皇は1889年に彼の名誉回復をした。だが、
薩摩軍の戦没者はいまだ名誉回復されず、靖国に合祀されてもいない。因みに、西郷の銅像がある上野の山は、皇居にとっては鬼門の方角であって、けっして名
誉ある方角ではない。せいぜい徳川家の墓地「寛永寺」の門番程度の位置である。
振り返ってみるに、日本
の歴史はつねに勝てば官軍の論理で貫かれてきた。負けた者の主張や論理をかえりみることはしなかった。東郷神社も、乃木神社も、東郷平八郎、乃木希典が勝
利者であったから建立されたのである。もし日露戦争に敗北しておれば、かれらの神社はありえない。
敗れた者の墓はせいぜい
「塚」として記憶されるにすぎない。三井物産本社前にある平将門塚、神戸三ノ宮にある楠正成塚…
ただし、楠正成の墓は明
治になって楠神社に格上げされる。明治になって彼は官軍の先輩に加えられたからである。菅原道真の天満宮は、左遷された彼の怨霊を天満宮にまつって名誉回
復し、都の異変災害を鎮めようとして建てられス。これも官軍の理論で敗者復活した例である。
このように概観してくる
と、靖国神社においても本来は勝ち戦の戦没者をまつるべきであって、負け戦の戦没者はまつるべきでないのである。
敗戦の戦死者を祭るに
は、「負けても官軍」という別の新しい理論が必要になる。それを「「昭和殉難者」という名目で大義名文化した。
そもそも京都につくった
招魂の祠自体が、幕府体制下では賊軍であった勤王の志士の秘密慰霊所である。秘密というのは、まだ非合法組織であったことを物語っている。しかし、国事で
倒れた志士ということで明治以後、負けた者が官軍になった。官軍であれば責任追及されないという特権さえも享受するようになった。
国事と官軍、この二つの
論理を巧みに使い分けている点こそが、靖国神社の本質的矛盾である。それは幕末以来、日本のために身を挺してきたもう一方のグループ、つまり賊軍の汚名を
着せられた戦死者たちの名誉回復をはからないまま、勝ち組の理論で貫かれている。賊軍の名誉回復をはかれば、勤王側の論理は崩れてしまう。これが、公平な
歴史の見直しや再認識を困難にしている最大の理由なのではないだろうか。
[ 対中国外交のあり方
]
首相の靖国参拝のたび
に、中国政府や韓国政府が不快の念を表明する。そのたびに、日本人は、「政府はいつまで中国へ土下座外交を続けるのだ」と、対中外交を批判する。だが、非
難の応酬では解決にならない。
問題は、日本政府がいま
だに「明確な言葉」で謝罪していないことにある。「過去の日中関係には、一時期、不幸な時期があり、遺憾に思う」
という表現では、いまだお茶を濁しているにすぎない。きちんと相手に伝わる言葉で謝罪すべきなのである。
「過去に帝国主義の日本
は中国を侵略し、中国国民と日本国民の双方に多大の迷惑をかけたことを心から日本政府はお詫びする。また過去に日本の軍国主義は、中国国民と日本国民とを
巻き込み、多くの犠牲者を出したことに対しても、心からお詫びをし、また犠牲者の冥福をお祈り申し上げる。今後は、過去の歴史を鑑として、歴史に学び、共
に協力して未来を建設したい」。こうはっきり詫びるべきなのである。
日本人の多くは、明確に
謝罪すれば、さらに多額の補償を要求されるのではないかと危惧し、だから婉曲な表現でしか日中関係の過去に言及していない。
筆者の畏友で、中国ビジ
ネス40年の大ベテラン、日中旅行社の米田征馬社長によると、このように明確に謝罪すれば、「では、もうそれでいい。それはもう忘れろ」と中国人は謝罪を
受け入れる。これが中国人の国民性であり、これが中国人の懐の深さなのだという。
ユダヤの教えに言う、
「悔悟は偉大である。それは罪を正しい行動への刺激に変える」と。そのためには、自らを反省し批判する痛みを恐れてはいけない。
日本のリーダーたちが、
問題を徹底的に整理しないまま、曖昧なことばで体面を繕い、自分たちの痛みを回避してきたことが、日本の政治・経済ならびに社会におけるさまざまの混乱を
招いた。
歴史というものは、当事
者双方が、事実を事実として真正面から認識する必要がある。
ユダヤ人に大量のビザを
発行し、彼等を救ったリトアニアの日本領事・杉原千畝の研究で有名な、ボストン大学のヒレル・レビン教授は、日本の対中、対韓外交を憂えて、次のように
語っている。
「中国や韓国の被害者が生
きている間に日本は宥免(ゆるし)を乞え。被害者は加害者を赦すことはできる。しかし犠牲になった死者は蘇らない。悪夢の記憶は、犠牲者からその子、その
孫へと語り継がれるたびに、かえって加害者への憎悪を増大させる」
被害者が生きている間に
直接謝罪し、直接赦しを乞う。これがなされない限り、怨念の記憶が昇華されることはないのである。
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著作
権:手島佑郎
Gilboa Institute gilboa.teshima@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/teshima/ https://www.facebook.com/jacob.y.teshima
Phone: 81-466-27-5443 ( 0466-27-5443 )
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