ギルボア研究所の名前の由来      手島 佑郎 

 

 

 多くの現代人は奴隷ということばを知っているが、奴隷を知らない。

 仕事の奴隷といった表現のなかに「奴隷」ということばを使う。だが、たいていは仕事をすることが生きがいで、ぶつぶつ言いながらも自分から仕事にはまっている。

 仕事が嫌いなのに仕事をしているわけではない。その証拠に、仕事の奴隷になっている人たちに仕事を離れた世界で何か生きがいがあるかというと、仕事と無関係の領域に得意分野があると言える人はまずいない。趣味にゴルフをあげる人でも、大半は仕事上のつきあいからゴルフを覚えたのであって、実態は仕事の延長線上である。

 金銭の奴隷ということばもある。これも好きで金儲けにふけっているのであって、金銭が嫌いなわけではない。最近では金の亡者ということばが使われなくなった。その代わりに金銭の奴隷という用語が登場するようになったまでだ。

 

 奴隷という概念にもっとも近いのは、借金の奴隷ということばである。

 ひと昔までは、借金のかたに娘を遊廓に売り飛ばす現実が日本にもあった。借金を返すまで娘たちは自分の肉体を犠牲にし、春を売らなければならなかった。遊廓から逃げ出そうものなら、恐ろしい用心棒の男どもが追いかけてきて、また苦界へ連れ戻した。

 

 古代オリエント世界やギリシャ・ローマ世界では、奴隷は、主として外国人から調達していた。それは、奴隷商人によって売買される奴隷や戦争捕虜が主体であった。奴隷商人があつかう奴隷も、素性をたどると、たいていは海賊船におそわれた商船の乗組員や乗客とか、山賊に襲撃され拉致された村の住民とかであった。

 一方、借金が払えなくなった市民が、家族もろとも一家で奴隷になるケースも少なくなかった。まさに借金の奴隷である。

 その場合、裁判所が破産認定をなし、その上で負債額を賃金で割って奴隷期間を算出し、返済期間が終わるまで奴隷になった。債権者の奴隷になることもあれば、債権者が他人に奴隷を転売してもかまわなかった。

 奴隷になるということは、たんに観念的に自由の権利を失うということではない。ふつうの労働者は主人と合意した時間だけ働けば、あとは自宅に帰ってかまわない。だが奴隷は、昼夜なく仕えねばならなかったし、帰る家がなかった。奴隷は市民権や公民権、戸籍も失う。それは、ロバ、ヒツジ、ウシなどの家畜と同じく主人の財産の一部になることを意味した。それは人間としての尊厳を失うことであった。

 

 奴隷といえば、3歳の夏、中国北部の町、大同で目にした苦力(クーリー)の姿は一生忘れられない。一般に「クーリー」といえば、インドや中国の下層の肉体労働者のことである。だが、大同で目撃した苦力は奴隷そのものであった。あるいは囚人であったのかもしれない。

 終戦間近の昭和20年7月末から9月末にかけて2ヵ月ほど大同に住んだ。わが家の前は石畳の緩やかな坂道になっていた。その坂道を、毎日、朝夕2回、水運びの苦力が通った。

 2人1組になって、2本の丸太を前と後とでそれぞれ両肩にかつぎ、その丸太に少年の背丈ほどの水甕がつるしてあった。行きは登坂で、甕は空であった。前と後と互いに掛け声をかけながら、勢いよく坂を上っていた。帰りは、甕からぴちゃぴちゃ水をこぼしながら、坂道を下っていった。なぜ水甕を運んでいたのかは、ぼくには分からない。

 水甕運びの苦力が近づいてくると、チャリン、チャリンと鎖の大きな音が響いてくるので、すぐにそれと分かった。

 というのは、彼等は互いに鎖につながれていた。右足と右足、左足と左足、右手と右手、左手と左手、それぞれ長い鎖でつながれていた。その足首の鎖が石畳にふれて、チャリン、チャリンと音をたてていたのである。たいてい2組が直列にならんで走っていたが、ときには、3組とか4組の長い列のこともあった。

 鎖につながれた人間、鎖につながれて強制労働させられる人間。

 あの苦力たちが、なぜ鎖につながれていたのか、ぼくには分からない。だが、自由な市民のあいだで、これ見よがしに屈辱のしるしを負わされて差別されている人間をみた記憶は、今もってぼくには強烈な印象となって残っている。

 

 ぼくも奴隷に似た経験をしたことがある。イスラエルに留学した21歳のとき、最初の半年をギルボア山の下にある農場で過ごした。

 主力作物は綿花であった。どの畑もだいた500メートル四方位あった。トラクターで畑の土を耕し、コンベヤーで刈り取る。大農経営であった。だが、収穫高をあげるためには機械だけでは十分でない。そこに人手が必要になる。とりわけ雑草抜きは機械ではできない。

 中腰に身をかがめたまま、1畝500メートルの雑草を抜く。5月半ばとはいえ、すでに直射日光30度以上の暑さである。1畝の雑草を抜き終わると、もう腰がのびない。そのまま、また中腰になって次の畝の雑草を抜く。

 暑さのため、畝の向こうの先にいる他の同僚たちの姿さえかすんで、よく見えない。

 そんな雑草抜きをしながら、ぼくはふと思った。ああ、これは、アメリカ開拓時代に南部の綿花栽培地帯で黒人奴隷たちがあじわった労働とおなじだ。こんな腰の痛みを感じながら、かれらは仕事に追いまくられていたのか。

 ただひとつの違いは、ぼくは自由人である。嫌ならば仕事をやめてもいいのだ。農場から出てもいいのだ。しかし、かれらは奴隷であった。農場から出ることも、仕事を選ぶこともできなかった。奴隷の生活って、ほんとうに大変だったのだなあ。

 あのときの苦労を忘れないために、ぼくは自分の事務所にギルボア研究所と命名した。

 

 それにしても、3歳のときに毎日ぼくの家のまえを通っていた苦力たちは、その後どうしただろうか…。中国の共産革命で自由になれたのだろうか…。

 

 

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