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以下の書評は日本ユダヤ学会紀要

『ユダヤ・イスラエル研究』第22号(November, 2007)からの転載。

書評 アブラハム・J・ヘシェル著(サミュエル・H・ドレズネル編訳)

『The Circle of the Baal Shem Tov : Studies in Hasidism』

         (University Press of Chicago,1985) 定価$34.99             

            手島 佑郎 

 

ヘシェルとハシディズム

 現代ユダヤ思想の巨人、ラビ・アブラハム・ヨシュア・ヘシェル(1906--72)の生誕100年を記念して、昨年から今年にかけて欧米ではさまざまな催しが行なわれている。

 彼が一躍有名になったのは、その著『 Man Is Not Alone』(1951年)を、キリスト教神学者ラインホルド・ニーバーが激賞してからである。以来、ヘシェルはキリスト教などユダヤ教の外の世界にむかっても、精力的にユダヤ思想のメッセージを伝え始めた。

 ヘシェルは、タルムードをはじめ正統ユダヤ教のラビ学を正式に習得していたし、ベルリン大学で哲学を学んだ。彼は、中世最大のユダヤ教学者マイモニデスを尊敬し、その学位論文はマイモニデス研究であった。また、彼はユダヤ教ハシディズム派の名門の出身で、ハシディズムについて内部から熟知していた。彼は同時代のどのユダヤ思想家よりも、ユダヤ精神を身につけていた。

 しかしながら、ハシディズムそのものについて彼が記した著作はそれほど多くない。その理由について、1972年11月のある日、筆者らを前にしてアメリカ・ユダヤ神学校(JTS)前期の「ハシディズム」講義の中で次のように語った(註1)。

 「ハシディズムの多くの指導者たちはヘブライ語で著作を著わしている。だが、ハシディズムの人々はイディッシュ語で考え、イディッシュ語で語ってきた。ハシディズムについて語ろうとすると、私はその思想だけでなく、その微妙な感情やニュアンスも伝えたくなる。それにはヘブライ語では不十分だ。イディッシュ語でないと表現できない。だが、イディッシュ語の読者は限られている。そのため、私は久しくハシディズムの紹介をしてこなかった。

 昨年のはじめ、ハシディズムの教師のひとり、コツクのラビ・メナヘム・メンデル(1787-1859)とキエルケゴールの対比を英語で書き始めた。途中で、やはりこれはイディッシュ語で書くべきだと思いなおし、コツク・ラビの評伝をイディッシュ語で書いた。それを夏前に脱稿した。秋になって、また英語で当初のコツク・ラビとキエルケゴールの対比を続けた。この数カ月集中し、ようやく書き終えたところだ」

 1972年12月23日金曜日の朝、彼はタイプした英語版の原稿を出版社に手渡し、その夜、急逝した。

 前者は、イスラエルにおけるヘシェルの弟子、ラビ・ピンハス・ペリ・ハコーヘンによって編集され、『Kotsk in gerangl far emesdikeit (Kotsk in struggle for integrity)』上下2巻(TelAviv,1973)としてヘシェルの死後出版された。前者の上巻の一部を英語の読者向けにヘシェルが書き改めたのが後者、『A Passion for Truth』(New York, 1973)である。

 

 ヘシェルは米国での活動の初期に、ハシディズムに関する断片的論文をヘブライ語で(一部イディシュ語で)数点発表している。その中の主要な論文4編が、1985年、サミュエル・ H・ドレズネル(1924-2000)によって英訳され、『The Circle of the Baal Shem Tov : Studies in Hasidism』(以下、『The Circle』と略)として出版された。収録されている論文は以下の通りである。

 

 [1]「コレツのラビ・ピンハス]"Rabbi Pinhas of Korzec"(『アレイ・アイン:ザルマンショッケン記念本』1948-52、pp. 213-44);

 [2]「クトブのラビ・ゲルション:その生涯とイスラエルの地への移住」"Rabbi Gershon Kutover: His Life and Immigration to the Land of Israel"(『ヒブルー・ユニオン・カレッジ紀要』 23 (1950-51): part 2, pp. 17-71);

 [3]「コソブのラビ・ナフマン: バアル・シェムの同志」"Rabbi Nahman of Kosow, Companion of the Baal Shem" (『ハリー・A・ウォルフソン記念本』サウル・リーベルマン 編、1965),ヘブライ語部, pp. 113-41);

 [4] 「ドロホビッチのラビ・イツハク」"Rabbi Isaac of Drohobycz"(『ハドアル記念号』 pp. 86-94、1957)。

 

 ヘブライ語原文では、それぞれ文章のスタイルも語調も異なり、執筆をしたその時々のヘシェルの感情や思いを微妙に反映している。英語の翻訳では、それに気づくのは難しいかもしれない。

 本稿では、『The Circle』に収録された4編の論文で、ヘシェルが何を語ろうとしたかその要点を紹介し、ヘシェル自身が知っていたハシディズムの世界を窺う材料を提供したい。

 

(1)「 コレツのラビ・ピンハス 」

 ヘシェルの論文「コレツのラビ・ピンハス」は、ホロコーストで失われた東欧ユダヤ社会への慟哭のことばで始まっている。だが、この論文の内容は、追悼というよりも、むしろ継承すべきユダヤ教信仰の伝統回復のための処方箋であった。ヘシェルは、ラビ・ピンハスの生涯を描きながらユダヤ教徒が本来めざすべき敬虔深い信仰生活の在り方を示唆した。

 ラビ・ピンハス(1728-1791)は、17世紀クラコフの高名なユダヤ神秘家、ラビ・ナタン・シャピロ(1633年没)の子孫である。

 ヘシェルは言う、「ピンハスは、タルムードやゾハル、その他のユダヤ神秘思想の書籍に精通していたばかりか世間一般の学問、例えば文法、幾何、数学についても造詣が深かった。人々に、若い時にこうした知識も身につけるようにと奨めていた」と(註2)。

 この点で、筆者が思い出すのは、ハシディズム勃興期に当時東欧のユダヤ教社会で「ヴィルナのガオン(最高の権威者)」と仰がれ、なおかつ真っ向からハシディズムに反対していたラビ・エリヤのことである。彼もまた幾何、地理学、天文学と医学など科学一般についての知識習得に意欲的であり、幾何学などはタルムードを学習するうえで大いに役立つと推奨していた(註3)。

 ヘシェルがまっさきにラビ・ピンハスを取り上げた理由は察するに、ハシディズムの開祖ラビ・イスラエル(1700-1760)、通称「バアル・シェム・トブ」がもうひとりの弟子ラビ・ドブ・ベエル(1704-177)と共にピンハスを彼の後継者に指名していたからだと推察される(註4)。ドブ・ベエルは、ハシディズムでは「マギッド・ミメズリッチ(メズリッチの説教者)」とか、「ハマギッド・ハガドール(大説教者)」と呼ばれている(註5)。

 しかし、ピンハスはバアル・シェム・トブの後継者としての活動をしなかった。というのは、彼は、マギッド流のハシディズム解釈とその実践方法に疑問をいだき、マギッドと行動を共にすることを是としなかったからである。

 マギッドは、ルリア学派のユダヤ神秘主義の実践方法をハシディズムに持ち込み、神に密着(デベクート)し、歓喜(ヒトラハブート)しつつ礼拝することが創造主への奉仕の真髄であると教えた。一方、ピンハスはその弟子たちに正直と謙遜、そして各自の人間性の浄化こそが神への奉仕の方法であると教えた。いずれも神と共に生活することの意義を説いたのであるが、喜びに満ちた他力本願か、真摯な精進に重点を置く自力本願かの相違となると、大半の人々はマギッドの門下生になる道を選んだ。

 バアル・シェム・トブは、信仰生活に対するラビ・ピンハスとマギッドとの見解の相違を承知の上で、そうした対照的見解と2極性のバランスこそがハシディズムの健全な発展に必要だと考えたのであろう。だから、両人を後継者に指名したものと筆者には思われる。事実、その後ハシディズムは、指導者たちの意見の対立と両極性という伝統の中で発展し、開花していったのである。

 

(2)「 クトブのラビ・ゲルション 」

 論文「クトブのラビ・ゲルション:その生涯とイスラエルへの移住」では、ヘシェルは既知の資料に加えて、彼自身で新たに見つけた古文書や資料を駆使し、バアル・シェム・トブの義兄ラビ・アブラハム・ゲルションの人物像を再現している。

 ゲルションは当初、出戻りの妹ハンナとバアル・シェム・トブの結婚に反対で、結婚した二人を離縁させようとさえした。彼の目には、義弟が無学に見えたからである。というのも、ゲルションはクトブ町の名誉ある神秘家協会「ハブラット・ハシディム」の会員だったからである。後に彼はブロディ市に移り、そこのユダヤ教小法廷の1つの首席裁判官に任ぜられている。1741年頃にブロディのユダヤ人社会全体をゆるがした上流社会のスキャンダル事件にさいしては、敢然と町の有力者を告発する正義漢でもあった。そのために、彼は裁判官職を解任される。  

 彼はまたブロディ市の神秘家道場「クロイス」の会員で、クロイスの朗詠者(ハザン)をも務める美声の持ち主であった。

 しかし、ある時、バアル・シェム・トブと一緒にミシュナを勉強していたさいに、彼の洞察にみちたコメントを聞いてから、ゲルションはバアル・シェム・トブを支持するようになった。

 

 さて、この第2の論文「クトブのラビ・ゲルション」は、その副題「彼の生涯とイスラエルへの移住」が示すように、主な目的の1つは、聖地イスラエルにおけるゲルションの活動の紹介にある。

 とかく、ゲルションはハシディズムの宣伝のために聖地へ行ったと思われている。しかしヘシェルによれば、そうではない。ゲルションは、中世から近世になっても離散各地から絶え間なく聖地へ移住していた敬虔なユダヤ教徒や神秘家たちの流れの中の1人にすぎないのである。

 ゲルションについて、彼がセファラディ系ユダヤ教徒であったことをヘシェルが立証している点は注目に値する(註5)。とくに、いくつもの往復書簡中での彼への敬称は、「ハハム・アブラハム・ゲルション」であった。これはセファラディ系学者への敬称である。アシュケナジ系学者の場合は、その敬称は「ヘハハム」と定冠詞がついていた。

 彼はコンスタンチノープルのセファラディ系社会の指導者、たとえば印刷業者として有名なソンチノ家の人々の支援を受けていた。

 ゲルションは1747年春、コンスタンチノープルから聖地へ船出した。その船旅で彼と同行したのは、ラビ・アブラハム・ロザンヌスで、世間を騒がせたシャブタイ・ツビの偽メシア運動に最も批判的な人物である。ということは、ゲルションの義弟が始めたハシディズム運動が偽メシア運動とは無関係であったことを裏付ける有力な証拠になる。

 エルサレムでは、ゲルションはセファラディ系でありながら、アシュケナジ系ユダヤ人社会から請われて共同体の首長役を引き受けている。それは、ひとえにアシュケナジ系ユダヤ人たちの生活保護のために、東欧から寄付金を募る役目でもあった。彼はヘブライ語、イディシュ語はもとより、アラビア語も堪能であったらしく、イスラム教社会の長老たちとも積極的に交流していた。

 彼はまた、エルサレムの有名な神秘家協会「ベイト・エル」の上級部会「ミドラシュ・ヘハシディム」の会員も名を連ねている。彼のこの地位は、東欧でハシディズムに反対していたアシュケナジ系神秘家たちの地位(パシュタニム)よりも高かった(註6)。またバアル・シェム・トブの運動についてベイト・エルでは既に知れ渡っており、人々はバアル・シェム・トブの聖地来訪を期待していたという。

ヘシェルが本論文を発表するまでは、一般にゲルションの聖地移住は1746/47年とされていた。しかし、ヘシェルは緻密な研究の結果、ゲルションがすくなくとも1740/42年以前にイスラエルの地を訪問していたと推定している(註7)。

 とりわけその1740/42年以前の第1回訪問のさいに、聖地からバアル・シェム・トブの写経師ラビ・ツビ宛に送った書簡には、タルムードとゾハルに関するゲルションの該博な知識の一端がうかがえる。手紙の内容は、トーラーの巻き物を写経するさいに、民数記10章35-36節の前後に挿入されている倒立したヘブライ文字「N」をどう取り扱うかである(註8)。

 

(3)「 コソブのラビ・ナフマン 」

 ハシディズムの世界では、同名の人物が多数おり、それぞれを区別するために、通常、名前の前に出身地名を冠する。もしくは、職業や社会的地位で区別する。たとえば、ハシディズムの2世代目の中心的指導者となったドブ・ベエルは、「マギッド」(説教者)とか、「マギッド・ハガドール」(大説教者)と呼ばれ、4世代目の指導者のひとり、ルバビッチのドブ・ベエルと区別されている。彼等は、お互いを姓で区別することはあまりしない。

 論文「コソブのラビ・ナフマン」でヘシェルは、バアル・シェム・トブとナフマンとの間で共有されていた草創期ハシディズムの教えに焦点を当てる。

 そもそもコソブのラビ・ナフマンも、さきに紹介したラビ・アブラハム・ゲルションも、クトブ町の神秘家協会「ヘブラ・シェル・ハシディム」、別名「ヘブラ・カディシャ」の会員であった。

 この会は、クトブのラビ・モーセと呼ばれる敬虔な指導者によって設立されていた。彼は霊的能力に優れ、病人などは彼に神へのとりなしの祈りを求めていた。そのラビ・モーセこそが、最初にバアル・シェム・トブの霊的才能を認めた人物である。彼の代理で、病人を癒すためにバアル・シェム・トブを派遣したこともある(註8)。ラビ・モーセはいわば、イエス・キリストの人物を最初に認めた洗礼者ヨハネのような存在である。ヨハネの弟子の中からキリストの弟子になった者がいたように、ラビ・モーセの弟子の中からバアル・シェム・トブの最初の弟子というか、賛同者たちが現れたのである。

そのラビ・モーセの弟子の中で最も有力なひとりがナフマンであった。彼は、他人の心の中にあることをバアル・シェム・トブが分かるという能力について疑念を抱いていた。あるとき、彼はバアル・シェム・トブに直接たずねた。

 「いま私が考えていることが分かるかい」

 バアル・シェム・トブは答えた。「あなたが心を1つのことに集中させるならば、私に分かるでしょう」

 ナフマンは、そうした。すると、バアル・シェム・トブは言った。

「神の名前YHVHが、あなたの心の中にある」

 ナフマンは言った。

「私が1つのことに心を集中すればどうなるかは、あなたには分かることだ。『私はYHVHを私の前に置いた』と聖書に記されている通り、他の思いを振払えば、いつでも私はYHVHに思いを集中するのだ」

 それ以来、彼はバアル・シェム・トブと親しく交わるようになった(註9)。

 神を終始意識すること、これは草創期のハシディズムの中心的課題の一つであった。その実践的な手段として、彼等は神の名「YHVH」のヘブライ語の4文字を努めて心の中で思い浮かべていたのである。また、壁掛けや食器などに聖なるこの4文字が記されていると、そこに視線を注いでいた。これは、ハシディズムで重視しているカヴァナー(神への精神集中、凝念)の実態である。

 ラビ・ナフマンは職業宗教家ではなかった。彼は裕福な穀物商人で、東欧のガリチア、ポドリア地方を行き来していた。行く先々でユダヤ教会の礼拝に参加し、しばしば教会長老たちの許可を得ずに礼拝のリード役をした。彼はハシディズム特有の熱誠と真実、そして喜びをこめて祈りをささげ、礼拝とは如何なるものかという模範を示した。

 バアル・シェム・トブとナフマンは、新しい運動を宣教するいわば両輪であったが、人々に接する二人のアプローチは異なっていた。バアル・シェム・トブは、愛と喜びと憐れみで世界と向き合い、人それぞれの道を理解しようとつとめていた。ナフマンは人々に厳しさと叱責、緊張で臨んだ。彼は短気であったし、神のまえで妥協なく生きることを人々に要求した。

 利己心や夢精の問題も含めて「悪の衝動(イェツェル・ハラア)」をどのように取り扱うかなど、バアル・シェム・トブとナフマンのアプローチの相違について、ヘシェルは本論文のかなりの部分をさいている(註10)。両者の比較は、ヘシェルの大著『トーラー・ミン・ハシャマイム』におけるラビ・アキバとラビ・イシマエルの律法に関する見解の対比を筆者には思い起こさせる。事実、彼が論文「コソブのラビ・ナフマン」を書いたのは、あの大著を執筆していた時期の前後なのである。

 

 なお、ナフマンに関する論文の「補遺、B」(註12)で、バアル・シェム・トブの弟子ラビ・ヤコブ・ヨセフがその著書の中で、ホロデンカのラビ・ナフマンと、コソブのラビ・ナフマンに関して、文書上での略称「Mohrモn」(モハラン、Morenu Harabi Nahman、我らのラビ・ナフマン)をどのように区別し、使用しているかについても詳述している。こういう微妙な区別は、ハシディズムを内部から熟知しているヘシェルにして初めて可能なことであった。これら2人の有名人のほかに、バアル・シェム・トブの孫でブラスラブのラビ・ナフマンという人物もいる。彼の語録は『リクーテイ・モハラン』という。

 

(4) 「ドロホビッチのラビ・イツハク」

 この論文で、ドロホビッチのラビ・イツハクをヘシェルが「(ハシディズム)運動の創立者のひとり」に数えている。これは、読者に奇妙な印象を与える。サミュエル・ドレズネルも指摘していることだが、「ラビ・イツハクは終生ハシディズムとはある程度距離を置いたままであった」(註13)

 それにもかかわらず、ヘシェルが彼をハシディズム運動の創立者のひとりに数えたのは何故か。

 周知のごとく、バアル・シェム・トブの職業は護符師で、彼はさまざまな目的のための護符を発行して生計を立てていた。

 ちなみに、英語圏では、「バアル・シェム・トブ」を「 the Master of the Good Name」と英訳している。これは誤訳である。というのは、護符師のことをヘブライ語では「バアル・シェム」と呼ぶからである(註14)。ヘブライ語のトブは、「よい」を意味する。彼の発行するお守り札には霊験があり、その保有者に不思議な庇護力を示していた。そこで、人々は彼を「霊験ある護符師、バアル・シェム・トブ」と呼んだのである。英訳するならば、「the good Master of the Name」とすべきである。

 ところで、あるとき1年あまりも彼の護符が霊験を示さなくなった。調べてみると、ドロホビッチのラビ・イツハクが発布したバアル・シェム・トブの護符に対する禁止令が原因であるらしいと判明した。彼は、バアル・シェム・トブが神聖な神の名を濫用していると考えたからであった。

 そこで、バアル・シェム・トブはラビ・イツハクを訪ね、護符を見せた。そこには呪文も神の名も記されておらず、ただ「イスラエル、サラの息子、バアル・シェム・トブ」とだけ書かれていた。一個人の名前だけで護符が威力を発揮するのを知って、ラビ・イツハクはバアル・シェム・トブを尊敬するようになった。彼は直ちにバアル・シェム・トブの護符への禁止令を撤回した。それ以来バアル・シェム・トブの護符は再び霊験あらたかな効果を発揮するようになった。

 つまり、ラビ・イツハクが自ら布告した禁止令を撤回したという一件は、バアル・シェム・トブの護符の合法性を承認したのみならず、結果的にはバアル・シェム・トブの活動の将来の発展への間接的支援にもつながったのである。

 そういう意味でヘシェルは、あえてドロホビッチのラビ・イツハクを草創期のハシディズムに貢献した重要人物のひとりに数えたのかもしれない。

 

(5) おわりに

 以上4つの論文を通してヘシェルが主張したかったことは何か。

 それは、ラビ・ピンハスであれ、ラビ・アブラハム・ゲルション、ラビ・ナフマンであれ、そしてバアル・シェム・トブの護符師としての活動に公的承認を与えたラビ・イツハクであれ、いずれも当時の東欧各都市で人々から尊敬されていた敬虔なユダヤ教学者であって、決して無学な庶民ではなかったという事実である。

 ヘシェルがこれらの論文を書いた1950年前後の頃、一般にユダヤの知識人社会では、ハシディズムをユダヤ教の本流から逸脱した大衆的信仰運動だと捉える風潮が強かった。それは、近代西欧ユダヤ啓蒙運動家など、ハシディズムの部外者が描いたハシディズム像にもとづくものであった。例えば、ユダヤ神秘思想研究家として当時すでに著名であったゲルショム・ショーレムは、ハシディズムを批判して、次のようなことばを述べている。

「ラビ指導のユダヤ教では、指導者としての理想的な姿は、共同体の精神的指導者は学者であり、トーラーの学徒であり、学殖あるラビといった姿を理想としていた。ハシディズムは、それからから逸脱していた」(註15)。

 ヘシェルは、明らかにそうした批判を念頭において、ハシディズムの、とりわけ草創期のハシディズムの指導者たちが学殖あり、律法に精通し、さらにユダヤ教社会内部で尊敬されていたエリート神秘家などの人物群であったことを立証し、ハシディズムの名誉と威信回復に努めたのである。

 

 『The Circle』に収録されたヘシェルの論文は、いずれもヘブライ語からの翻訳である。訳者であり編集者でもあったサミュエル・ H・ドレズネル(1924-2000)は、1940年代にシンシナティのヒブリュ・ユニオン・カレッジでヘシェルに出会い、米国でのヘシェルの最初の弟子になった。本書は、著者へシェル自身の原註にもまして、編者ドレズネルが追加した詳細な訳註によって、いっそうその価値をましている。本書の冒頭に彼が記した「編訳者序論」は、草創期のハシディズム世界を理解するためにも、またヘシェルの思想を研究する人々のためにも、かけがえのない参考資料となるであろう。

 

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(註1)  ドレズネルは、「ヘシェルはハシディズムについてはJTSで一度も講義をしなかった」と『The Circle』の序文(p. xxxiv)で述べている。しかし、1972年秋学期で「ハシディズム」講座を設け、主としてコツクのラビ・メナヘム・メンデルの思想について講義した。

(註2)  『The Circle 』 p. 4.

(註3) 参照、「Elijah ben Solomon Zalaman」の項、『The Encyclopaedia Judaica』, 巻 6, 651-58.

(註4) 『The Circle 』 p. 70.

(註5) 同書 p.84。

(註6) 同書 pp.90-97。

(註7) 同書 pp.106-112。

(註8) 同書 pp.117。

(註9) 同書 pp.120-121。

(註10) 同書 pp.126-148。. The Circle of the Baal

(註11) 同書 pp.141。

(註12) 同書 pp.149-151。

(註13) 同書 「序論」p. xl。

(註14) 参照、「Baal Shem」の項目、『The Jewish Encyclopedia』 (New York, 1902), 巻2, 382-83。

(註15)  ゲルショム・ショーレム著『Major Trends in Jewish Mysticism』p. 333.