イスラエル & ヨルダン訪問(1999/3/18--24)報告  手島佑郎

[Return to the front page.]

 

 今年の3月、ほとんど8年ぶりにイスラエルを訪問してきた。今回はまったく個人的にぶらっと出かけた旅であったが、3つの目的があった。

エルサレム: 中央はイスラム教の黄金のモスク、手前の城壁の下は嘆きの壁の広場
 第1に、35年前ヘブライ大学でお世話になった先生方に私の近況を報告し、ご挨拶しておくことであった。お世話になったヘブライ大学聖書学のハラン教授、米国史学のアリエリ教授、法学のラビノビッチ教授など、どなたもお元気で、いまもご活躍であった。

 35年前、ラビノビッチ先生のご家庭のシャバットの晩餐の席で、私は本物のユダヤ教に触れた。先生とそのご家族の敬虔で、しかもユダヤ教の伝統に忠実で、しかも温かい信仰の現実に出会ったから、その後、私はユダヤ教の内面の世界を学びはじめたのである。

〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

  第2に、パレスチナ人の町ヘブロンを訪れ、1994年2月に狂信的ユダヤ教徒によって虐殺された27名のイスラム教徒の犠牲者の霊に弔意をあらわし、聖地の平和を祈ることであった。

 今回イスラエルを訪れて、8年前よりずっと鮮明になっていたのは、ユダヤ人地区の豊かさとパレスチナ人(アラブ人)地区の貧しさという貧富の差の拡大である。ユダヤ人地区は新しい瀟酒な住宅が次々に建設されている。アラブ人地区では、旧態依然と貧困をうかがわせる町並みである。その貧富の対称さが歴然と分かるのは、ベツレヘムからヘブロンへと続く途中の風景であった。

 パレスチナ自治政府の支配下のヘブロンは、ユダヤ人入植者と現地パレスチナ人(アラブ人)とが、もっとも先鋭に対立している地区の一つである。だから、ヘブロンへはパレスチナ人の運転手のタクシーで出かけた。ヘブロンのアラブ人街では、ユダヤ人の国語ヘブライ語を話すのはタブーであった。こういうちょっとした点で、イスラエルとパレスチナの間の和平は、いまだ形式にすぎないことを感じた。民族感情の和解はまだまだ先である。

 ヘブロンには、イスラム教徒とユダヤ人の共通の祖先アブラハムが眠るマクペラ寺院がある。その妻サラ、彼の子イサクと妻リベカ、孫ヤコブと妻レアもここに眠っている。現在では、寺院の中のイサク、ヤコブの廟の前の一角がユダヤ教徒用の礼拝所になっている。だがアブラハムの廟のまえの大きな礼拝堂は従来通りイスラム教徒の礼拝堂である。

 そのアブラハムの墓の前のイスラム礼拝堂で、1994年2月、ユダヤ教徒の狂信者ゴールドスティンがイスラム教徒にとって神聖な金曜日の礼拝中に、礼拝中のイスラム教徒にむかって機関銃を乱射し、27名のイスラム教徒を無差別殺戮した事件がおきた。

 かつて1972年5月、日本赤軍の岡本公三らがテルアビブ空港で機関銃を乱射し、多数のユダヤ人とプエルトリコからのカトリック巡礼者を殺戮した事件があった。あのとき、私はニューヨーク留学中で、事件の翌々日に大学院の修士課程の卒業式をひかえていた。だが、卒業式出席をキャンセルして、即日テルアビブに飛び、同胞が犯した罪について、テル・ハショメール陸軍病院に入院中の負傷者40名全員にお詫びして回った。最初は、私が日本人だというだけで憎悪を表わしていた人々が、最後には、全員が心をひらいて、日本人へのゆるしを与えてくれた。いまでも、テルアビブ空港に降りるたびに、ああ、あの日の痛ましい記憶が私の胸のなかにうずく。

 そういう経験をもつ私には、ヘブロンの悲劇も見過ごしに出来なかった。一度は惨劇の現場を訪ねて、アラブ人犠牲者のまえに慰霊をしたかったのである。そして今回ようやくその念願がかなえられた。ゴールドスティンが打ち込んだ機関銃の弾痕いまなお生々しい礼拝堂の壁を見た。神はユダヤ人だけのための神ではない。キリスト教徒ばかりのための神でもない。神は全人類のための神である。 ああ、イスラム教徒虐殺を神はどんなに嘆き悼んでおられるだろう。犠牲者もどんなにか無念であったろう。

  ヘブロン市内のマーケット風景

 しばらく礼拝堂の中にたたずみ、殺された27名のイスラム教徒の人々の霊をなぐさめ、心から平和への祈りをささげた。旅に同伴してくれた妻は、イスラム教の婦人用ガウンをすっぽり頭からまとい、床にひざまづいて、涙いっぱいに祈っていた。

 

〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 

 第3に、ヨルダンに足を延ばし、BC1700年頃に イスラエルの先祖ヤコブが天使と格闘したという「ヤボクの渡し」とも呼ばれていたマハナイムの遺跡を訪ねてみることであった。

 エルサレムから車で1時間もしないうちに、ヨルダンとの国境アレンビー橋に到着する。この橋は死海に近いヨルダン川にかかっている。アレンビーというのは、かつてパレスチナ地方が英国の植民地であった時に、この一帯を統治していた英国のアレンビー将軍の名前である。ところが、ヨルダン側では、この橋をキング・フセイン・ブリッジと呼んでいる。

 ただし、国境を通過するには、両方の検問所を通らなければならないから、通過だけでかれこれ2時間を要する。

 国境通過後、ヨルダン川沿いにヨルダン渓谷を北上し、古代のヤボク川、現代のジャルカ川流域のムアッディの町まで行ったが、ガイドも運転手も「ヤボクの渡し」物語などまるで知らない。

古代ローマの広場ジェラシの遺跡

 川ならば古代ローマの遺跡ジェラシの近くから、上流を見ればいいと勧める。一応、ジェラシへの途中で川のほとりに立ち寄った。だが、上流だけを見ても、どうも納得できない。ヨルダンは2日間の短い滞在なのに、初日には目的を達成できなかった。

 2日目は、まずアンマンの南西40キロのネボ山へ行った。ここはBC1300年頃に、エジプトからイスラエルの民60万人をひきいて脱出したモーセが、120歳の生涯を終えた場所である。眼下に死海やエリコ、遥か彼方にカナンの山々を望む、なかなか素晴しい景観であった。

モーセの最期の地、ネボ山

 

アモリの遺跡、テル・ヘシボン

 そのあと、さらに周辺の町を見物する予定であったが、このまま「ヤボクの渡し」を見ないでヨルダンの旅を終えるのは、私にはとても残念であった。そこで予定を変更し、ハイヤーの運転手と交渉し、再度「ヤボクの渡し」を探しに、北上することにした。

 途中、モーセたちのカナン侵入を阻止しようとした古代のアモリの遺跡テル・ヘシボンに立ちよった。訪れる客もいない丘から見渡す周囲の景色は、3300年前の栄華を今も語っているようであった。

 

 その後、車で2時間、昨日の場所まで戻り、田舎道へ入った。だが、どの道がヤボクの渡しへ続くのか、どうも分からない。さんざん道に迷ったあげく、あるレストランに来た。ともかく、そこで腹こしらえをして、もう一度道を探すことにした。

 休憩していると、運転手が彼の知人とばったり出会った。運転手も知人もアンマンの住民なので、なんでこんな田舎で出会ったのかと驚きあっていた。

 運転手が知人に事情を話すと、その知人は、「それはこのレストランのオーナーに頼んで見ればいい。私の親戚だ。彼は元ヨルダン農業大臣で、ヨルダン渓谷開発公社総裁もしていた。彼ならば川の上流への立ち入り許可を警察から貰ってくれるだろう。ジャルカ川の奥へは一般のヨルダン市民も立ち入れないのだ」という。

 やがて、オマール・ドッハン氏という威風堂々、長身で70歳台半ばの老紳士が現われた。

 

ムアッディの町からヤボク渓谷を望む

オマール・ドッハン氏と筆者

 氏にも、私がなぜジャルカ川の奥へ行きたいのか、その理由がいまひとつ理解できなかった。それでも私の願いをかなえてあげようと、あちこちの役所に電話をして下さった。おかげで、地元の警察の刑事の審査にもパスした。まもなく水利開発事務所の主任技師が私たちを迎えにジープできた。

 川に沿って15分ほど行くと、険しい峡谷となる。乗用車はとても入れない悪路だ。峡谷の奥では農業用水を取り込むダムの建設工事が進んでいた。さらに進むと、ジープでしか登れない急な山道になる。やがて目指す古代のヤボクの渡しが見えてきた。あのレストランから30分以上も山奥に入った地点であった。

 ヤボクの渡しは、川が激しくS字型に蛇行し、峡谷を深く垂直に削っている。我々が立つこちらの山がマハナイム。谷をはさんで正面に迫り出している向いの尾根がペヌエル。そこは渡し場というよりも、黒部峡谷であった。断崖の深さは200m以上もあろう。この断崖を渡るということは、引き返せないことを意味するのだ。それが、ヤコブが逡巡した理由である。ヤコブはここで天使と格闘し、天使と互角に戦った。そして、古いヤコブ(だます者)とい名前から、新しくイスラエル(神と戦う者)という名前に変わった。過去と訣別し、彼は人格的変貌をとげた。つまり、ここは、イスラエル民族の誕生の場所ともいうべき歴史的な遺跡なのである。

 

 

写真正面の山の中腹の岩山がマハナイム、谷が湾曲し、右の白い部分がペヌエル
 のちにBC980年頃、ダビデ王が息子アブサロムの反乱にあって、いのちからがらここへ亡命した。外部からこの谷に攻め入るのは難しい。いざとなれば、川向こうの天然の要塞に立てこもることも出来る。

 この谷にはベドウィンが数家族住んでいる。水利事務所の主任技師は、「彼等は見知らない者がこの谷に入って来ると、いまでもライフルで威嚇射撃をしてくる。怖いですよ。まあ、私たちは例外ですけど…」と話していた。まさに、ここが秘境で残ってきたゆえんである。

 最後にドフガン氏は、「ヨルダン政府にジャルカ川の奥を観光客に開放するよう建白書を提出したい。ぜひその草案を送ってほしい」と要請された。早急に、これにお応えしたいと思う。

 神にともなわれ導かれていなければ、足を踏み入れることもできなかったヤボクの峡谷…。今回の旅をかえりみて、つくづく思う…。聖書は考える世界ではない。見て体験し、納得する世界である…と。空想だけでは解けない謎が、現地に立つと、いくつも合点できるのである。

 [Return to the front page.]