〜 パレスチナの壁がなくなる日 〜  「大法輪」2004/7月号 

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手島佑郎 

◎ パレスチナとイスラエルの間の壁は、お互いに望ましくない。

            〜ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ代表〜 

  ◎ パレスチナとイスラエルを仕切る柵は、パレスチナ人だけでなく、イスラエル人をも囲い込んでいる。         

              〜エリ・コーヘン駐日イスラエル大使〜

                          

[ イスラエルとパレスチナのはざま ]

 

 先日、駐日イスラエル大使と駐日パレスチナ代表とを相次いで訪問した。目的は、イスラエルが建設中のパレスチナ自治区との間の仕切りについて、双方の意見を直接聴いてみることであった。その仕切りをパレスチナ側は「壁 wall」と呼び、イスラエル側は「安全柵 security fence」と呼んでいる。

 テレビや新聞などでは、延々と続く白いコンクリート壁の下でパレスチナ人とおぼしき人影が映っている映像が紹介されている。巨大な壁と貧しそうな人影との対比という構図が、一方では権力を行使するイスラエル国家と、他方では権力を持たないパレスチナ民衆という対比をイメージさせ、おのずとパレスチナ人への同情を誘ってしまう。

 だが、実際のところ、この仕切りは何なのか。何の目的で仕切りが作られ、どのように仕切りは役立っているのか。また、どのような影響を及ぼしているのか。今後、これらの仕切りはどのようになるのか。相争う2つの民族の真実の顔はどうなのか。筆者は、純正に第三者の立場からこれらの疑問と取り組んでみた。

 

[ 仕切りの構造 ]

 

 まず仕切りの現状である。筆者は、あえて「壁」とも「柵」とも呼びたくない。それはどちらか一方の意見を代弁することになりかねないからである。壁といえば、ベルリンの壁のようなものを連想する。柵といえば、牧場の柵や、野球場の観客席のフェンスなどを連想しかねない。実際は、そのどちらでもない。

 現在建設済みの仕切りはすでに225kmに達し、その大部分は鉄条網と金網である。報道写真で見かける高さ8mのコンクリートブロックによる壁は、カルキリヤと東エルサレムなどイスラエル側の自動車道路沿いの8.5kmである。225km全部が巨大な壁で囲まれているわけではない。

 イスラエル側の計画によると、仕切りは最終的に総延長720kmに及び、合計約16〜20kmにコンクリート壁が設置される予定である。

 コンクリート・ブロックの場合も、金網の場合も、その上に侵入者探知用の針金が張られている。

 金網の場合は、一番外側に有刺鉄線の防御ワイヤーがあり、その下に人の背丈よりも高い幅5mほどの溝を掘り、侵入者足跡発見用の幅6mほどの土埃の道が続く。この上を、道幅いっぱいの大形熊手を車の後部につけたジープが、毎日数回清掃しながら走る。もし誰かがここを横断すれば、一目瞭然、足跡が残る。そして侵入探知用ワイヤーを張った高さ3mほどの柵が続く。その内側も侵入発見の土埃道路。そして戦車も通れる国境警備隊用パトロール道路と有刺鉄線の防御ワイヤーとなっている。地形にもよるが、ほぼ4車線分の道路と、かれこれ幅60m乃至100mの広大な仕切り帯が続くことになる。 

 コンクリート・ブロックには、高さ3mのブロックと高さ8mのブロックの2種類がある。どちらも幹線自動車道路沿いに設置されている。高さ8mのブロックの場合、その外側に300m幅の空き地を設けている。これはパレスチナ側の建物の上からイスラエルの車両を狙っての狙撃を防止するためである。周囲に建物が無ければ、通常、道路は高さ3mのブロックで保護されるだけである。

 ブロックの裂け目からパレスチナ人の子供たちが出入りしている風景をよく見かける。あれは、畑の中を走る主要道路沿いの壁である。とはいえ、低いブロックの場合でも、今後、その外側に侵入者発見道路やパトロール道路が強化されていくことは必至である。

 

[ 何の目的で ]

 

 なぜこういう人工的な仕切りをイスラエルは建設しはじめたのか。イスラエル側の説明によると、それは2000年9月以後増加したパレスチナ人によるテロを防止するためであるという。

 1967年の第3次中東戦争以後このかた34年間は、イスラエルとガザ地区との間を除いては、ヨルダン川西岸のパレスチナ地区とイスラエルとの間は、どこにも鉄条網も関所もなかった。パレスチナ人もイスラエル人も自由に往来できていた。ガザや西岸地区からも、毎日10万人のパレスチナ人が、仕事をしに出かけていた。

 仕切りの建設は、01年7月のイスラエル政府の決定で始まった。

 もっとも、1948年の第1次中東戦争から67年の第3次中東戦争までは、当時ヨルダン領であった西岸地区、およびエジプト領であったガザ地区との間には休戦ラインと呼ばれる事実上の国境があり、それぞれ休戦ラインにそって無人緩衝地帯が走っていた。

 当時、エルサレムもヨルダン領旧市街とイスラエル領新市街との間を無人緩衝地帯が走っていた。しかし、ビルが連なって続いていたロシア教会の一角だけは、高さ10m以上の「壁」が東西500mほどにわたってそそり立ち、建物と道路を分断し、両方の人も交通も遮断していた。

 新旧両市街の行き来は、無人地帯のまん中に位置するマンデルバウム・ゲートを通じて、わずかに国連関係者と一部の旅行者だけに許されていた。当時、一般人がヨルダンへ行くとか、ヨルダン領のパレスチナ人がイスラエルの親族を訪問することなど皆無であった。

 筆者は、ヘブライ大学留学時代の1965年に、トルコ・レバノン経由の空路で、東エルサレムを訪問したことがある。頭上にはイスラエルとヨルダンの双方を照らす太陽があるのに、人間の世界は1枚の壁で双方が隔てられているのを見て、本当に悲しく思った。あのとき、筆者はまたレバノン・トルコ経由でアテネへ引き返し、それからイスラエルへ入国した。とても不自由な時代であった。

 さて、イスラエル国内の自爆テロは、2001年前半19件、後半27件、2002年前半50件と年々増加していた。だが仕切りの設置が始まった2002年後半以後は11件、03年前半11件、03年後半9件と激減している。その点では、仕切りの建設がテロ防止に効果があったと認めざるを得まい。 

 

[ 仕切りの影響は ]

 

 一方、仕切りの建設が、その近隣の住民に多大の不便と苦痛を与えている事実も見逃せない。とりわけ、パレスチナ人住民に多大の犠牲を強いている。

 第1に、仕切りで隔てられるために、パレスチナ人であれイスラエル人であれ、その内外への行き来が不便になる。そうは言うものの、イスラエル人は身分証明書を見せるだけで検問ゲートを通行できる。だが、パレスチナ人はゲートを通過するたびに、検問で長時間待たされ、ひたすら忍耐するしかないのである。

 国連の調査によると、仕切りの両側に点在するパレスチナ人の122町村と、その住民27万4,000人が直接この苦痛にさらされる。その他、両側を往来しなければならない労働者や農夫なども加えると、40万人以上のパレスチナ人が影響を受ける。

 第2に、仕切りの建設用地を収用されるパレスチナ人の被害が大きい。

 イスラエル国防省の昨年11月の発表 (http://www.securityfence.mod.gov.il/)によると、イスラエルは、パレスチナ人地主に毎月の地代と農作物の補償費を支払うために、補償費2,200万ドルの予算を組んでいる。すでに220万ドルの補償請求がパレスチナ人から申請されているという。

 また、接収用地にオリーブやオレンジなど果樹園がある場合は、その樹木の移植も行なわれている。すでに6万本以上のオリーブが移植し直されたという。

 

[ トルコ時代の法律 ]

 

 ところで、英国の経済雑誌『エコノミスト』誌(2003年10月11日号)によると、収用された後、分断された土地を地主が3年間以上耕作もしくは利用していないと、トルコ時代の法律、「不利用地接収法」によって、現在でもパレスチナの土地は公有地に編入され、地主は地権を喪失する可能性があるという。

 現在建設中のこの構造物が潜在的に含んでいる最大の問題は、この点である。  検問所を通過するのが面倒なために、パレスチナ人地主が検問所の外にある農地を耕作しないでいると、3年後には私有地の地権を喪失し、その土地がイスラエル領土に組み込まれてしまうかもしれない。

 イスラエルが建設中の仕切りによって、イスラエル側に取り込まれてしまう土地は、西岸地区全体の面積の14.5%(約93万4,000ドゥナム、1ドゥナム=1反)に及びかねない。

 事実、1949年の第1次中東戦争後の休戦ラインは、その後、イスラエルとヨルダンの国境となってしまっており、休戦ライン内に取り残されたパレスチナ地区は、現在はイスラエルの一部となっている。

 また67年の第3次中東戦争後、この不利用地接収法により、イスラエルは西岸の60%以上を公有地化してきた。そこにユダヤ人入植者たちの村を建設してきた。

 今後、仕切りがそのまま国境になってしまうのではないか。パレスチナ側はこの点を最も懸念している。

 

[ 安全柵は国境になるのか ]

 

 この疑問に対して、イスラエルは真正面から否定している。再三、「安全柵は、あくまでも暫定的防御手段であって、国境ではない。フェンスであってウォール(壁)ではない」と宣言している。

 イスラエルのこの発言を信用していいのか。

 筆者は、目下のところ、これを信用していいと考える。というのは、イスラエルは67年の第3次中東戦争後、エジプト領であったシナイ半島を占領し、占領地とエジプトとの間に同様の防御網を建設していた。しかし、79年のイスラエル・エジプト平和条約調印後、段階的にシナイ半島から撤退し、82年4月には完全に49年の休戦ラインにまで撤退し、現在はそれが両国の国境となっている。

 また撤退にさいしては、占領中のシナイ半島に建設していた全てのユダヤ人入植地を取り壊し、原状回復をした上で、エジプトに返還した。

 イスラエルとパレスチナとの国境策定も、エジプトの例にならって、まず双方の暴力行為を停止させ、和平条約を実現した後で、段階的に解決することが現実的であるように思える。

 

[ 壁は取り払えるか ]

 

 「壁」と呼ばれているコンクリート・ブロックの部分に関しても、これは撤去可能である。和平が実現したら、不用になったコンクリート・ブロックをガザ地区の海岸へ運び、広大な埋め立て地の建設や、沖合で人口島や魚礁建設などに再利用すればいい。

 あのエルサレム旧市街と新市街とを分断していた鉄筋コンクリートの「壁」さえも、67年の中東戦争後は取り崩された。その結果、イスラエル人とパレスチナ人との共存が始まった。

 もとより、エルサレムのイスラエル人とパレスチナ人との心の中にも、いまだに微妙な相互不信と警戒感の感情がある。それでも、一定の理解と共存が実現してきた。これは、1つの空の下で同じ町を往来しあってきたからである。

 91年のインティファーダ(暴動)のさい、ベツレヘム、ヘブロン、ナブルス、ラマラなどパレスチナ人だけの町では、抵抗運動が盛んであった。対照的に、エルサレムのパレスチナ人は比較的平穏に過ごしていた。それは彼らが、67年以来、イスラエル人とまがりなりにも共存してきたからである。

 

[ 指導者の決断 ]

 

 では、どのようにすればこの壁や柵を撤去できるのか。

 イスラエル側は、パレスチナ人がテロを停止させることが先決だという。パレスチナ側は、壁の撤去とイスラエル軍による武力攻撃停止が先決だという。まるで鶏が先か、卵が先かの議論のようだ。

 はっきりしていることは、壁や柵の出現によって、テロの発生件数が激減した事実である。また壁や柵の存在がイスラエル側にとっても、パレスチナ側にとっても生活の不便を増大させている事実である。

 そうであるとすれば、早急にイスラエルとパレスチナとが話し合い、壁の撤去と暴力の停止を同時に約束し、同時に実行することである。

 これは、双方の指導者の決断と決心に懸かっている。

 イスラム教のコーランは言う。

「いったん約束をしたらば約束を果たし、困窮や不幸に陥っても危急の時に臨んでも、毅然としてそれに堪えて行く人、そういうのが誠実な人、そういうのこそ真に神を畏れる心を持った人」(コーラン「牝牛」編172)

 ユダヤ教のタルムードは言う。

「正しい人は少なく約束し、多く実行する。悪人は多く約束し、少しも実行しない」(タルムード「ババ・メツィア」編73a)

 イスラエルとパレスチナ双方の指導者が神を畏れ、正しい人であるならば、和平の実行は可能なはずである。暴力で応酬するのではなく、まずは平和を実現する約束を双方が決心することである。   

 

[ パレスチナの長期的平和のためには ]

 

 だが、武力停止を約束しても、それだけでは平和は長続きしない。

 長期的な解決策として、ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ代表は、次のように提案している。

「ともかく双方が理解しあう環境を作ることである。例えば、双方が教師を交換し、それぞれの学校で生徒たちにイスラエル人は何を考えているか、パレスチナ人は何を思っているかを伝え合うことだ。とりわけ、パレスチナ人の子供たちに、パレスチナの外の広い世界を体験させることだ。双方の子供たちを交流させ、現在の憎しみではなく、未来の希望に目を向けさせることだ」と語っている。

 シアム代表は、青年時代にテキサス大学に留学した。彼は唯一人のパレスチナ人で、周囲の学生は皆キリスト教徒の白人ばかり。最初は偏見で見られていた。だが、彼は次第に白人学生たちと親しくなったばかりか、やがて自治会の委員長に推挙された。その経験から、彼は教育と広い視野の大切さを学んだのである。

 エリ・コーヘン駐日イスラエル大使は、日本の松涛館流空手5段の武芸家である。彼は言う。

 「武力を行使しても平和は来ない。武という文字は、戈を止めるという意味だ。パレスチナ人の生活環境を改善しなければ、いつまでも闘争は終わらない。ガザを始め、パレスチナ各地に学校を充実させ、工場を作り、産業を振興させ、パレスチナ人自身が生活できるようにすることだ。胃の中に消えて行く食糧援助ではいけない。そのためにも、日本には多くの点で貢献できることがある。アメリカでも、ヨーロッパでもない。これからは日本が中東の平和構築のために役立つ時代になる」

 日本が中東和平のための政治的イニシャティブを取ることは、まだまだ難しいかもしれない。

 しかし、とかく口先だけの約束に終わる外交にくらべると、中東社会のインフラ作りという地道な活動こそは、日本に最適の任務なのであろう。 

 ちなみに、昨年12月に着任したコーヘン駐日イスラエル大使は、祖父や両親が北アフリカのイスラム国チュニジア出身である。チそうしたイスラム圏の文化的共感もあって、イスラエルのコーヘン大使とパレスチナのシアム代表とは友好的な対話を東京で続けている。心の壁がときほぐされる時、未来への希望も見えてくるのだ。

 

手島佑郎(てしま・ゆうろう) 

1963年エルサレム・ヘブライ大学留学、哲学・聖書学を専攻、67年卒業。

70〜77年ニューヨーク、アメリカ・ユダヤ神学校大学院留学、77年「ユダヤ教ハシディズムと禅仏教の比較研究」でヘブライ文学博士号取得。74〜76年、ロスアンゼルス、ユダヤ大学講師。85年より現在、ギルボア研究所代表。

ナザレ在住のパレスチナ人弁護士ナビール・アスフール、ヨルダン前国会議員でPFLP幹部のハメド・ファラニらとも深い親交がある。